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写真の増上寺と東京タワーをよくあるセットの構図だろう。おまけに飛行船が左上上空を近づいてきたのは、出来すぎか。
増上寺の壮大さは、日光東照宮に引けを取らない貴重なものであったが、昭和20年(1945年)の空襲で建造物群のほとんどが焼失。現在は、台徳院霊廟惣門(重文)と、有章院霊廟二天門(重文)、鋳抜門を残すのみであり、それらも保存状態の悪さが目立つ。他に台徳院霊廟の門3棟(各重文)が戦災を免れたが、ホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されたという。
写真の大殿は、昭和49年(1974年)に再建されたもの。
増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られているそうだ。6人の将軍はじめ徳川家の墓は、今は改葬されて大堂裏の墓所にあり、かつて壮麗な建築美を誇った霊廟の跡はゴルフ場および東京プリンスホテルになっている。
COMMENT:(増上寺-Wikipediaから)空海の弟子・宗叡が、武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が、増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗。この聖聡が、実質上の開基となる。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では、天正18年(1590年)、家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが、菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新の政教分離によって境内の広範囲が芝公園となるが、現在なお、大寺の風格を残している。
増上寺の壮大さは、日光東照宮に引けを取らない貴重なものであったが、昭和20年(1945年)の空襲で建造物群のほとんどが焼失。現在は、台徳院霊廟惣門(重文)と、有章院霊廟二天門(重文)、鋳抜門を残すのみであり、それらも保存状態の悪さが目立つ。他に台徳院霊廟の門3棟(各重文)が戦災を免れたが、ホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されたという。
写真の大殿は、昭和49年(1974年)に再建されたもの。
増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られているそうだ。6人の将軍はじめ徳川家の墓は、今は改葬されて大堂裏の墓所にあり、かつて壮麗な建築美を誇った霊廟の跡はゴルフ場および東京プリンスホテルになっている。
COMMENT:(増上寺-Wikipediaから)空海の弟子・宗叡が、武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が、増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗。この聖聡が、実質上の開基となる。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では、天正18年(1590年)、家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが、菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新の政教分離によって境内の広範囲が芝公園となるが、現在なお、大寺の風格を残している。