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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

ビジネスを嫌ったソースタイン・ヴェブレンの「限界的人間」観

2006年10月15日 18時31分31秒 | Journal
 物を作る目的の産業(Industry)と、金儲けの手段としての営利企業(Business)との二分する見方がある。ビジネスは、産業を推進せずに、むしろ産業を侵食していく――ソースタイン・ヴェブレン(Thorstein Veblen)の資本主義観である。
 今の株取引の実態をみると、このヴェブレン流の二分が、まさに機能しなくなっている。時々刻々と上げ下げするパソコン画面の株価に一喜一憂する人間の姿は、まさに「限界的人間」のそれである。
 ヴェブレンが、ハーバード大学の雑誌『クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス』に発表した論文「経済学はなぜ進化的科学たり得ないのか(Why Is Economics Not an Evolutionary Science ?)」(1899年)には、こんな風な新古典派の「限界的人間」観が要約されている。

 ――経済学者の心理学的かつ人類学的な前提は、数世代前の心理学や社会科学の前提そのままである。快楽主義的な人間観とは、快楽と苦痛を瞬間的に計算する人間という考え方であり、それは均質な幸福の塊が、刺激を受けてあちこち動き、位置は変わるが、自らは変わらない存在として捉えられる。この彼には過去もなければ将来もない。彼は孤立した、限定された人間で、静寂を破る連続的な力でどちらか一方に動かされる以外は、じっと静止状態にある。要素空間に身を置き、自分の精神軸の周りをぐるぐる廻るだけで、力が自分に加わるとそのベクトルの指し示す方向に従って動く。その加わった力が消え去ると、彼は休止状態に入り、元の自己満足的な欲望の塊に戻る。抽象的に言えば、この快楽主義的な人間は自ら行動する主体ではない。彼は、生存過程の中心的存在ではない。ただ外部の、自らはどうにもならない状況によって課せられた一連の条件に従うのみである。

■追記――ところで、ヴェブレン先生、不精のため、食後の汚れた皿を幾日も積み重ねたままにして上からホースで洗い流したとか、学生には学力と関係なく全員に同じ成績を付けるくせに、ある学生が奨学金資格に必要だからと頼めば、無造作に評価点CをAに代えてやったり、学生の授業出欠カードを手元が狂ったようにわざと混ぜてしまったとか、ともかくどうしようもない逸話を生涯に満載してみせたのが、しかし、写真の風貌ながら、なぜか女性にもてた。
 彼は、エレン・ロルフという知的な女性と結婚していたが、女性問題など素行が不安定なために、シカゴ大学を辞職させられ、さらに、同じ理由からスタンフォード大学も追われ、ミズーリーの田舎大学で年契約の講師の境遇に甘んじることに。
 晩年の彼は、カリフォルニアのパロアルトの山荘に引きこもって貧困と孤独の生活を送り、1929年8月3日、大恐慌の直前に死んだ。
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