折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

男の「矜持」、男の「美学」とは~「落日燃ゆ」の広田弘毅の生きざま

2009-03-19 | 映画・テレビ
前回は映画「ベンジャミン・バトン」について書いたが、今回は先日テレビ放映された「落日燃ゆ」についての感想を書いてみたい。

            
            東京裁判でA級戦犯として絞首刑の判決を受ける広田弘毅(北大路欣也)
            (テレビ朝日「落日燃ゆ」より)


日本が戦争へと突き進んだ時代。

総理大臣や外相として戦争回避を主張し続けながら、東京裁判でA級戦犯として絞首刑になったただ一人の文官・広田弘毅の半生を描いたドラマで、原作は城山三郎の小説「落日燃ゆ」である。

城山三郎の原作を読んだのがいつ頃だったのかは、はっきりと覚えていないのだが、多分、30代の中頃だったように思う。

その内容については、今では余り良く覚えていないが、読み終わった時は広田弘毅という主人公の潔い身の処し方、生きざまに、これぞ男の「矜持」、男の「美学」だと、大いに感銘を受けたのを今も覚えている。

そして、今回、テレビで、改めて主人公の身の処し方、生きざまを見て、原作を読んだ当時感じた、男の「矜持」、男の「美学」についての考え方が、ちょっと変わったことに気が付いた。


それには、幾つかの理由が考えられる。
その一つは、小説と映像との違いにあるのかなと思った。

即ち、小説を映像化した場合、幾つかの例外(「砂の器」など)を除くと、ほとんどの場合、映像は小説に及ばないと言うのが、小生の持論である。

小説「落日燃ゆ」については、何分読んだ内容を覚えていないのだから、テレビを見ただけで軽々に断じることはできないが、この際、もう一度原作を読んで確認して見なければなるまいと思っている。

もう一つは、小生自身の物の見方、考え方の変化である。

小説を読んだ当時は、今よりはずっと若く、主人公のように一切弁解せずに戦争責任を引き受け、従容として死んでいった主人公の生きざまに、人間のあり方としての理想を見たように思ったのだが、テレビを見終わって感じたのは、自分の「非」を認めて、一切弁明しないということが果たして「潔い」と言えるのだろうか、自分の「非」は非として認めた上で、主張すべきことは、はっきりと主張し、最善を尽くして、何としても「生きる」ことが、何よりも彼を愛し、必要とし、心から尊敬した人たち、特に主人公があれほど愛した家族への責任というものではなかったのか、ということであった。

主人公の「命」は、主人公一人だけの「命」ではない。

そのことに思いを致せば、法廷の証言台に立つことなく、自分の人生を自分の手だけで完結させてしまったことについて、その生き方が果たして男の「美学」と呼べるものなのだろうかと、いささか納得できないものを感じたのである。

いつもはテレビを見ていても、途中で寝てしまうことが多い、かみさんがめずらしくこのドラマを最後まで見ていて、

「最善を尽くさない人って嫌よね。あれでは、何だか家族が可哀想。あのような生き方を男の<美学>なんて言わないで欲しいな」

と言うコメントに、妙に説得力を感じてしまった。

そして、やはりもう一度、原作を読んで見る必要があると改めて思った次第である。

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