男は、4年ほど前の60才の時に車の免許を取った。
男が免許を取ろうと思ったのには、三つほど理由があった。
第1の理由は、免許を持っていなかったことで長い年月引き摺って来た『劣等感』から解放されたいと言う、強い思いがあったこと。
第2の理由は、自分の現役時代、妻には雨の日、風の日と何かにつけて駅まで送り迎えしてもらったので、今度は小生が近くの職場に通う妻の『運転手』役を勤めようと柄にもなく『女房孝行』を考えたこと。
第3の理由は、当時は会社を定年退職したばかりで当座これと言ってやることがなかったこと。
男は、2年半ぐらい前からペーパー・ドライバーの道を辿っていた。
そして、車の運転がもっとも必要とされる時、例えば
焼け付くような夏の暑い日、
北風が吹きすさぶ冬の寒い日、
しとしとと雨がそぼ降る梅雨の日、
突然、雷が轟き、集中豪雨になった日など
男は自分がペーパー・ドライバーであることに耐え難い自己嫌悪を催し、
“この能無しめ!”
“このろくでなしめ”
“この役立たずめ”
と自分自身に罵声を浴びせるのが常であった。
そもそも、男がペーパー・ドライバーになってしまったのは、自宅の駐車場が極端に狭くて、免許取りたての男の拙い運転技術では、車の出し入れがままならず、従って、気軽に車を乗り出して練習できなかったために段々と面倒になり、億劫になってしまったという事情が直接的な原因であるが、一方、男には、免許取立ての頃、皆が体験する『運転が楽しくてしょうがない』と言う感覚を持つことができず、逆に『ネガティブ』なイメージが絶えず付きまとっていたので、自分はひょっとしたら『車との相性が良くないのではないか』と思い込んでしまったのが、どうも本当の原因のようだ。
車の運転は『習うより慣れろ』だよ、と多くの人にアドバイスをもらったが、言うならば、男の場合、運転の楽しさを知る前に、そして、運転に慣れる前にリタイアしてしまったのである。
そして、男の思いの中には
ああ、これでは『劣等感』から解放されるどころか、結局は『劣等感』の上塗りじゃないか、『女房孝行』だって?よく言ったもんだよ、そんなカッコいいこと一度もやってないじゃん。こんな惨めな思いをするのだったら、免許など取らなければ良かったと言う強い悔恨だけが残っている。
それに対して、周囲の人は言う。
“もう、みんなあきらめているし、だれも期待していないから気にしないほうがいいよ”と。
“その年になって事故でも起したら、人生が変わっちゃうよ、せっかくここまで順調に来ている人生だもん、運転しないで済むなら、しないのがベストだよ”と。
みんな、親切にそして善意で言ってくれているのであるが、傷つきやすく、壊れやすい男のナイーブな心には、そんな励ましや、慰めさえもプレッシャーに感じてしまうのであった。
かくて、男の『嘆き節』は、止まることなく、これからも続くのである。
男が免許を取ろうと思ったのには、三つほど理由があった。
第1の理由は、免許を持っていなかったことで長い年月引き摺って来た『劣等感』から解放されたいと言う、強い思いがあったこと。
第2の理由は、自分の現役時代、妻には雨の日、風の日と何かにつけて駅まで送り迎えしてもらったので、今度は小生が近くの職場に通う妻の『運転手』役を勤めようと柄にもなく『女房孝行』を考えたこと。
第3の理由は、当時は会社を定年退職したばかりで当座これと言ってやることがなかったこと。
男は、2年半ぐらい前からペーパー・ドライバーの道を辿っていた。
そして、車の運転がもっとも必要とされる時、例えば
焼け付くような夏の暑い日、
北風が吹きすさぶ冬の寒い日、
しとしとと雨がそぼ降る梅雨の日、
突然、雷が轟き、集中豪雨になった日など
男は自分がペーパー・ドライバーであることに耐え難い自己嫌悪を催し、
“この能無しめ!”
“このろくでなしめ”
“この役立たずめ”
と自分自身に罵声を浴びせるのが常であった。
そもそも、男がペーパー・ドライバーになってしまったのは、自宅の駐車場が極端に狭くて、免許取りたての男の拙い運転技術では、車の出し入れがままならず、従って、気軽に車を乗り出して練習できなかったために段々と面倒になり、億劫になってしまったという事情が直接的な原因であるが、一方、男には、免許取立ての頃、皆が体験する『運転が楽しくてしょうがない』と言う感覚を持つことができず、逆に『ネガティブ』なイメージが絶えず付きまとっていたので、自分はひょっとしたら『車との相性が良くないのではないか』と思い込んでしまったのが、どうも本当の原因のようだ。
車の運転は『習うより慣れろ』だよ、と多くの人にアドバイスをもらったが、言うならば、男の場合、運転の楽しさを知る前に、そして、運転に慣れる前にリタイアしてしまったのである。
そして、男の思いの中には
ああ、これでは『劣等感』から解放されるどころか、結局は『劣等感』の上塗りじゃないか、『女房孝行』だって?よく言ったもんだよ、そんなカッコいいこと一度もやってないじゃん。こんな惨めな思いをするのだったら、免許など取らなければ良かったと言う強い悔恨だけが残っている。
それに対して、周囲の人は言う。
“もう、みんなあきらめているし、だれも期待していないから気にしないほうがいいよ”と。
“その年になって事故でも起したら、人生が変わっちゃうよ、せっかくここまで順調に来ている人生だもん、運転しないで済むなら、しないのがベストだよ”と。
みんな、親切にそして善意で言ってくれているのであるが、傷つきやすく、壊れやすい男のナイーブな心には、そんな励ましや、慰めさえもプレッシャーに感じてしまうのであった。
かくて、男の『嘆き節』は、止まることなく、これからも続くのである。