人は、それぞれの価値観を、生まれた時から徐々に形成していく。政治の世界では、この価値観がぶつかり合うことで、世界の柔軟性、生き生きとした世の中が構成されていくように思う。
独裁者がいて、その価値観のもとに、全員が拘束されるのでは、本当のいきいきさは、生まれてこないのではないか。北朝鮮のマスゲームをみていると、本当に楽しい生活なのだろうかと思う。
人間らしい喜びが伝わってこない。だが、そのむかし、あれがよくみえた。価値観というのは、変化するのだ。統制のとれた美しさに感動したものだった。だが、あれが、今や、恐ろしく思えてくる。
人間にとって、自由であることが大事であること、価値観の相違をお互いみとめあって、強制されないことが大事であるという風に変わってきた。
こんどの選挙は、憲法をめぐっては、二つの見解にわかれる。自衛隊を軍隊として、憲法に書き加えたい勢力と、そうすれば、戦争可能となり、それは戦争への道だという反対の勢力である。
そのなかで、共産党は、ずっと異質の存在として扱われた来た。戦前は、非合法組織としてひどい弾圧にあってきた。一部に武力闘争をいう部分もあった。ソ連や中国の成り行きをみて、共産党の将来を見越しているかのような価値観もある。
共産党は、すでに、かなり変化してきている。以前のようなイメージとは違う綱領をもっている。一党独裁の考え方ではない。ならば、なぜ、特殊扱いをされるのか。それは、さきに書いた事情があると思われるが、一種の先入観があって、ふれてはいけないという偏見がこびりついている。弾圧の歴史のなかで、根深い「常識」のようになっている。
これらの打破に共産党は、これからなお努力がいるのだろう。リベラルの中心部分として、世の中をどう理解し、イメージしていくのか、そして組織論としても、執行部体制の合理的、民主的運営のよりわかりやすさを、追及してほしいものである。