他人がこう言うから、そうする、とか、誰それを信用して、つき従うとか、そこに、自身の意見、見識がなければ、まことに危うい。自立して、自己決定をすることをしなければ、生きている意味がない、といいたい。
オーム真理教のことをあげるまでもなく、カリスマ教祖がいて、奇妙な教えを振り回す。これにつきしたがう人々。自身の努力は、つき従うことだけで、教祖の自信ありげな態度に右へならえ、して自信満々のふるまいとなり、それが、錯覚の生きる自信となっている。
よほど反社会的にならない限り、この盲目集団は、教祖の思うままに操られることとなる。教祖は、合法化維持のために、姿を隠す。信者の前にだけ、それも幹部だけの前だけである。著作は、つまらない、彼の日常生活の「活動」のあれこれ。それを信者たちが有難がる。
いろんな集団があって、本当に自身の意見、見識で行動できる人は、意外に少ないのかもしれない。親、兄弟、先輩、後輩、さまざまな人間関係や、雇用関係などなど、自立の時期は、教育の中身にも影響される。頭から、洗脳するようなシステムであれば、自立の機会が得られないかもしれない。
これからの時代は、おそらくは、個人個人が、自分の価値観をもちつつ、それが、借り物ではなく真に自由人としての選択ができるかどうかが、全体として、人類の健全な発展を保証するのではないかと感じる。
違いのなかで、共通したものが発生する。このことについて、深めていきたい。発信の能力は、このための前提条件であると考える。