ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

雲雀山に風が吹く 2

2017年01月22日 21時20分32秒 | ウォーキング

河川敷に出るとやはり風が強いですねえ。



紀伊の山の中から
有田川に沿って、
冷たい風が吹いています。

いやあ、こんな年末の寒い時には
山歩きは無謀だったかなあ
とちと反省をしましたが、
まあ遊びですから貪欲に行きましょう
ってちょっと変かなあ?

大きな有田川を越えるのに、
昔には宮原の渡しがあったそうですが、
いまはもちろん立派な橋が架かっています。
そんな宮原橋がこれ。



いやあ、立派な橋ですねえ。



有田川の寒い光景を
写真に撮ったりしながら渡ると、





そこに熊野古道の道標がありました。



あ、そうかあ、左折して
有田川の堤防をしばらく
上流に歩くんでしたねえ。



ちょうどその時河川敷にある
ゲートボール場から高齢者の人たちが
「よいお年を」とか言いながら、
2016年最後の試合を終えて
帰っていきはるところでしたね。

ああ~今年もみんなと楽しく
ゲートボールができたなあと
幸せそうでしたね。



河川敷をしばらく歩いて、
次の道標のところで
堤防から下りていきます。



あ、前回はアキノノゲシが
咲いていたりという季節でしたが、
今は水仙がとてもきれいでした。



まだ12月だというのに、
もう咲いているんですねえ。
淡路島なんかも
もう咲いているんでしょうねえ。

友ヶ島とかから見えないかねえ~。

国道42号を越えて



なおも山方向へと向かっていきますと、
ありました。


ここが中将姫ゆかりの
「雲雀山得生寺(ひばりさん とくしょうじ)」です。

中将姫は747年に
藤原豊成の娘として生まれました。
その姫が13歳の時に
継母のいじめで雲雀山に
捨てられ殺されそうになったのですが、
その時の使者である伊藤春時
(のちに解明して“得生”と名乗る)
が姫の人徳に打たれ、
彼女を庵で守ったそうです。

それがのちに「得生寺」となって
残っているというお寺です。

中将姫はのちに父親豊成に再開し、
将来當麻寺で尼僧となって暮らし、
29歳で入滅するという
人生をたどります。

継母にいじめられたのは、
地位の問題とその美貌と才能に
恵まれていたことによるものだ
と言われています。

それにしても29歳で
そんな物語を残すとはねえ。
doironなんか60年生きても、
まあ二度死に損ねた
くらいのことくらいしか
残ってませんねえ。

さてのちにこの得生寺は
浄土宗のお寺として
発展していくわけですが、
その中将姫の命日である5月14日には、
来迎会式の二十五菩薩の練り供養があり、
地元のええしの子どもたちが
練り歩くという会式が行われます。

「嫁見するなら糸我の会式で」
と言われているそうですね。

和歌山県の無形文化財に
指定されているそうで、
今年は5月14日に
見に行こうかなあと思い、
自分のカレンダーに印を
入れておきました。



このオレンジ色の鉄骨の上に
通路が設けられて、
ここを歩くわけですな。

ここの建物の中には、
中将姫と得生夫妻の座像があるそうです。



こうしてひと通り
中将姫ゆかりの得生寺をまわったので、
いよいよ今日の目的地である
雲雀山へと向かっていきます。

もうしばらく熊野古道を歩いていきますと
右手に「糸我稲荷」が現れます。



稲荷に関しては、
例えば日本三大稲荷というと
いくつか種類があるそうで、
いろんな稲荷がまじりあっています。

まあだいたい総本山として
伏見稲荷は入っているのですがね。

でもねえここの糸我神社は
伏見稲荷の創建よりも
約60年前に建てられた
との文章があるのです。

文化7年(1810)当時の神官、
林周防が寺社奉行に報告した
「糸鹿社由緒」によると、
創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、
社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあります。
あの総本山よりも古いということなんですね。

そのことから鳥居の扁額には
「本朝最初」と書かれてあるそうです。



古い歴史のある神社ですねえ。

続く


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