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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

古墳に興奮 第2部の2

2013年07月04日 21時29分08秒 | ウォーキング

いたすけ古墳を後にして、
住宅街を抜けていくと
堪興神社という表示が見えてきます。
その手前を鋭角に曲がると

「御廟山(ごびょうやま)古墳」



この古墳は大きさ的には
百舌鳥古墳群の中で4番目と大きく、
古記録、地域伝承、墳丘の形態や
規模、出土品等により、
宮内庁によって皇族の墳墓とされたものの、
被葬者を特定する資料に欠ける陵墓として、
大阪府に6か所ある陵墓参考地の
ひとつに数えられています。

この「陵墓参考地」あとは次に訪れるニサンザイ古墳と
藤井寺、松原に一つずつ、
河内長野に2つあります。

ちなみに全国的には
46の陵墓参考地が指定されています。

御廟山古墳も周りに外周道路があります。
まったく近所の人たちにとっては
古墳は絶好の散歩コースでしょうねえ。

外周道路の途中にあったのがこれ。



永尾大神。

二つの石が御神体になって
祀られていました。
仁徳御陵の陪塚である
丸保山古墳のところにも
八丈神社と称していくつかの大神様を
祀ったところがあったけど、
それと一緒かな。
日々の参拝が信仰にへと
変遷していったのかもしれません。

その先、すこし古墳から離れたところに

「元永尾山」





とかかれたお寺がありましたが、
関連は不明です。

この御廟山古墳にも
陪塚は複数あったそうです。
でも今はこの万代山(もずやま)古墳が残っているのみだそうです。



御廟山古墳の周りを三分の二ほど回ったところで、
地面の茶色の敷石に誘導されて
「百舌鳥八幡宮」へと入っていきます。

途中、出会ったのが

「高林家住宅」



江戸時代の大庄屋の屋敷で
国の重要文化財に指定されています。
残念ながら、一介の歩き人には
中をうかがい知ることはできませんでしたので、
外から写真を撮っておきました。

百舌鳥八幡宮へは南北の参道ではなく
西から入っていきます。

ここは、神功皇后が幾万代まで天下泰平
を祈願されたことにより、
この地を万代(もず)と称して
創建した神社だそうです。



でもねえ、ちょっと待ってください。

この地を「もず」と呼んだのは、
仁徳御陵の築造現場に迷い込んできた鹿が絶命し、
耳から百舌鳥が飛んで出たことによるもの
とのことではなかったんでしょうか。

神宮皇后は仁徳天皇より以前の時代の人だから
こちらの方が信憑性が高いのかな。

もずやま古墳というのも近くにあったことだし、
そもそも、死んだ鹿の耳から
百舌鳥が出てくるなんてのは
不自然な話ですしね。

ほかにも「毛受」や「毛須」も「もず」の語源
だという説もあるようです。

伝承にはいろんな伝わり方がある
ということにしておきましょう。

それにしても「毛受」とは
有り難そうな名前ではありますね。

この神社の境内には、
天然記念物に指定されている

「百舌鳥八幡宮のくす」



があります。
樹齢7~8百年のその枝振りは
天を覆い尽くすばかりに広がり、
なかなかの迫力。



先日歩いた泉南は岡中の大楠が横綱だとしたら、
このクスノキは大関といったところでしょうか。

それにしても大樹の陰には
ほんとに涼しい風が吹くもんなんですね。

そんな涼しい木陰には
道標が立っておりましたが、
どうも拓本を取った後なのか、
それとも保存のための処置なのかわかりませんが、
文字の部分に何かが埋まっていて
読み取りが難しかったです。



「すぐ かうやさん(高野山)」なんでしょうか、
すぐではなくかなり離れていますけど。

そしてこの面には



「右 いゑはら(家原)」とあるのでしょうか、
よく読めませんでした。

お詣りを済ませて、鎮守山塚古墳を左に見ながら
参道を下っていき、正面鳥居の
信号を一つ越えたところにも
道しるべが固まっている一角がありました。
ここにも「右 いゑはら」や
「右 家原 左 高野山」の文字が見えます。



道標は右左を案内していますが、
doironのコースは右にも行かず、
左にもいかず、まっすぐ次の
「ニサンザイ古墳」へと向かっていきます。

続く


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