山中渓の駅からは主要地方道64号を南下していきます。
このシリーズの初めに
「府道64号」と書きましたが、
これが和歌山に入ったら
そのまま「県道64号」になるのかと思いきや、
広域交通を担い指定された道路は
主要地方道というんですね。
熊野街道歩きで府外に初めて出ていくので
新たにこれは勉強になりました。
その64号には、
一部歩道も整備されていますが
基本的に歩道がありません。
車に注意しながら歩いていきます。
登り道は左側通行
下り道は右側通行が
横を通過する車の速度との関係で
具合がいいようです。
この道は、トライアスロンをやってた頃、
バイク練習でかなり頻繁に来た道です。
半日時間があるとすっ飛ばしてきて、
この先の雄の山峠を往復して帰りました。
午前中は牛滝に行き、
一旦帰って昼食後に
雄の山峠という練習もよく繰り返していたものです。
そんなバイクに乗っている当時から
何となくこの地域に「熊野」の
言葉の記憶が片隅にあったのは、
こんな看板がいくつも立てられてあったからでしょう。
今も地元の人は熱心に活動しているのですねえ。
交番にも案内地図が張られてありました。
駅を出てまず最初にあったのが、
山中関所跡です。
前回も書きましたが、
このあたりは山に囲まれた細い谷で、
現代ではJRや阪和自動車道も通る
交通の要衝となっている
いわばプチ関ヶ原のような地形です。
なのでここを通る旅人の経路は限られており、
関所としては申し分のないところだったわけです。
ここに作られた関所では関銭が徴収されました。
人馬、荷物などに課せられた
いわゆる通行税ですね。
こうして集めたお金を
今の河内長野にある観心寺の
法華堂建立のために用いたので、
今も地域の人はこの地を
「ほっけどう」から転じた
「ほけんとう」と呼んでいるそうです。
ではその法華堂はどうなったかと調べてみますと、
観心寺の法華堂は
現存はしていないけど
後村上天皇の崩御(1368年)に伴って
建てられたようです。
立札に書いてあった1395年は
徴収を命じた長慶天皇の生存期間とも合わないので、
阪南市のHPの1369年と書かれてあるのが正解のようです。
ま、もともとそんな厳密なブログじゃないんで
別にいいんですけど、
立札一枚にもいろんな背景があるもんですねえ。
この関所跡をすぎて右に曲がると、
昨秋に来た雲山峰への登山道が始まりますが、
街道はそのまま64号を行きます。
おっ、途中の電柱にこんな張り紙がありました。
今もたくさんのバイクが通るんでしょうね。
それにしてもここは登りなのに
スピード落とせとは・・・と思ったのですが
バイクに乗って高速で下っていたら
こんな小さな張り紙はちょっと目に入らないでしょうから
登りにあって正解ですね。
と、その時ふと地面を見るとこんなものが。
水道管の中の空気を調整する空気弁です。
それはいいのですが、
「東鳥取町」とあります。
うひゃ~これは古い。
東鳥取町の名前が
町の合併でなくなったのが昭和47年。
ということはこの弁のフタも
今から42年以上前に作られたものですから、
これも歴史の証人、貴重な歴史的産物になりつつありますね。
そんな風に前を見たり横を見たり、
下を見たりとキョロキョロしながら歩いています。
この日は陽がさすとポカポカ陽気のとても春めいた日でした。
道端には今年初めてのスミレの姿もありました。
一方、まだまだ寒い日も多いとみえ、
橋の上ごとには凍結防止剤が置かれてありました。
道路の通行安全のために散布するこの薬品が、
最近各地で問題になっている橋梁や
高架道路の劣化を促進する
塩化カルシウムであることが
あまり話題にならないのはどうしてかな
とかねがね思っているdoironです。
さて、まだこのあたりは大阪府内です。
もうすぐ和歌山との府県境に出ますが、
その前に立ち寄るところがまだ2か所あります。
また続く
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