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小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)

2020-01-26 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月26日(日)11時31分46秒

なかなかニコライから抜け出せませんが、プロテスタントの視座から眺めた日本キリスト教史に些か食傷気味であった私にとって、正教会の歴史は本当に新鮮で、『宣教師ニコライの全日記』全九巻は汲めども尽きぬ泉のような存在です。
ただ、つい最近、小川剛生氏の吉川弘文館人物叢書『二条良基』が出て、『増鏡』についてかつての自説を改め、成立年代を後ろにずらして従来の通説に復帰した旨を書かれていたので、ちょっと脱線して、小川新説を少しだけ検討してみようと思います。

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南北朝時代の関白。当初後醍醐天皇に仕えながら北朝で長く執政し、位人臣を極める。南朝の侵攻、寺社の嗷訴、財政の窮乏等あまたの危機に立ち向かい、室町将軍と提携し公武関係の新局面を拓く。かたわら連歌や猿楽を熱愛し、『菟玖波集』を編み世阿弥を見出す。毀誉褒貶激しい複雑な内面に迫り、室町文化の祖型を作り上げた、活力溢れる生涯を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b491656.html

対象を黒く塗ってから、その黒さを批判するのは私の好むところではありませんので、まず、小川新説の内容をそのまま紹介したいと思います。(p202以下)

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  四 『増鏡』の問題

 さて、永和二年は『増鏡』が成立したとされる年である。
 『増鏡』は後鳥羽院の生誕より始め、後醍醐天皇の討幕に終わる、鎌倉時代百五十年を公家の視点で描いた歴史物語で、「四鏡」の掉尾の作品である。作者は良基、成立時期は応安・永和年間(一三六八-七九)であるとの説があり(石田吉貞「増鏡作者論」、木藤才蔵「増鏡の作者」)、多くの賛同を得て、現在定説となっている。
 良基説の根拠には、良基が仮名文の執筆に当代最も長けたこと、その作品でしばしば高齢の老人が語り手になること、発想・語彙とも『源氏物語』への傾倒がはなはだしいことなどが挙げられている。とはいえ、これらは作者にふさわしいという徴証であり、断定はできない。良基の仮名文はいずれも短いもので、『増鏡』のごとき長編の書き手たり得るかの疑問もある。同じ仮名文といっても、文体の印象もかなり違う。ただ、これも否定説の決め手にはならず、作者問題の議論は膠着状態である。
 成立時期は、元弘三年(一三三三)を最終記事とし、後醍醐の治世の出来事が最も詳細で、かつ作者・読者が実際に経験したことを前提に語るので、観応年間(一三五〇-五二)以前とする見解がある。著者はかつて、暦応・康永年間(一三三八-四五)まで遡ると考え、良基では若年に過ぎるとしたが(小川「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」)、現在は考えが変わっている。『増鏡』は現在時制を取る物語で、たとえ記事に「今の」「近き」とあっても、あるいは迫真の描写であっても執筆の時点に近接するとはいえない。年代記としては正確ではあるが、描写は理想化の度が甚だしく、悪くいえば画一的で、創作の要素も色濃い。したがって、成立時期は最終記事よりかなり降ると考えるべきであろう。これは『大鏡』でも同じである。さらに『増鏡』諸本のうち、応永九年(一四〇二)に書写された奥書を持つ写本群には、第七巻北野の雪、後宇多院誕生の場面で、母后が「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」と願ったとして、その子孫つまり大覚寺統(南朝)の衰頽を暗示する一節があり、これは少なくとも応安以後の状況の反映であろう。
 そして、この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない。現に流布し始めるのはこの後である。すると成立をおよそ応安・永和年間と見るのはやはり蓋然性が高い。
 結論の出ないことであるが、これまで述べてきた良基の伝記の知見から、作者問題に改めて言及したい。
 良基が生涯、後鳥羽院と後醍醐天皇を敬慕していたことはもちろん、そこでは両者の「宮廷の主」としての優美な振る舞いを美化する傾向があった。「二条良基内奏状」では後鳥羽院の多芸多才に深く共感したり、後醍醐の追善を強く訴えたりしており、それが応安四年であったことが重視される。また、『増鏡』のみ見える、後醍醐が隠岐配流の途上で歌に詠んだ「三ヶ月の松」という珍しい地名が、応安七年の大原(野)千句でも詠まれ、良基が注文で「名所なり、秋に非ず」と指摘した事実も注目される(『連歌』島津忠夫著作集第二巻)。こうなると良基が『増鏡』の内容を熟知し、共鳴していたことは否定しがたい。ならば誰かに書かせてみずからの名で世に出したか、またはみずからが筆を執ったとするのが最も自然であろう。
 『増鏡』は中世のみならず、古典の散文作品のうち屈指の傑作である。老境の良基が連歌その他の厖大な業績に加え、もし『増鏡』を生み出していたとすれば、文学史上でも稀有の作家となる。ただ、それは生涯では比較的閑暇を得ながら順境とはいえない時期であったことになる。
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『増鏡』に関する記述はこれが全てです。
「三ヶ月の松」云々は今回初めて出てきた論点ですが、後は従来の論文・著書に出ている内容で、材料自体に新しいものは殆どなく、単に見方が変ったということのようですね。
コメント
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