学問空間

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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その11)

2020-01-17 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月17日(金)12時09分25秒

前回投稿で引用した「神田の青年会館でプロテスタントの日本人牧師たちが集会を開き「イエス・キリストは神か、神ではないのか」という題で論議した」という記事ですが、『宣教師ニコライの全日記 第7巻』を見ると、

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一九〇二年四月二日(一五日)、火曜。

 ほとんどが日本人からなるプロテスタント牧師や伝道師たちが、今月の一一日からこの界隈にある青年会館で集会を開いている。さまざまな議題のなかで、「イエス・キリストは神か否か」という投票が行われた。「神であるに投票した者は一一〇人、神でないが六人、どちらとも言えないが三三人であった」。キリスト教の宣教にとってなんと恥ずべき結果であろう。プロテスタント教団は疑念によって、まるで錆のように蝕まれている。
-------

とあります。(p101)
同日はこれで全文です。
ニコライは日付を最初にロシア暦(ユリウス暦)で、ついで括弧内に新暦(グレゴリウス暦)で記していますが、「今月の一一日から」以下を過去の出来事として描いているので、これはグレゴリウス暦の4月11日のことですね。
また、中村氏は「この界隈」を神田と解されたのでしょうが、同年6月8日の記事に、4月11日から横浜で開かれたプロテスタントの集会のことが出ていて、4月15日の記事と同じ集会のように読めます。
非常に細かな話になりますが、この当時のプロテスタントの状況を伺わせる記事でもあるので引用してみます。(p117)

-------
一九〇二年五月二六日(六月八日)、日曜。

 プロテスタント系の定期刊行物は日本福音同盟会(Japan Evangelical Alliance)の混乱を槍玉にあげている。新暦の四月一一日から横浜でこの同盟会の「第一一回総会(Eleventh General Conference)」が開催された。きのうの“Japan Daily Mail”〔『ジャパン・デイリー・メール』〕の Monthly Summary of the Religious Press〔宗教刊行物の月間要約〕の記事には、この一連の会議で起きたことが、プロテスタント系の新聞『福音新報』『六合雑誌』からの抜粋によって簡潔に描かれている。それよりも早く、六月三日の“Japan Daily Mail”紙に載ったあるプロテスタント宣教師(Reverend Wendt〔ヴェント師〕)の書簡にも同様の記述が見られる。
 同盟の憲法第一項にはこううたわれている。「福音同盟会の目的は、福音という共通名称で呼ばれる諸原理を有する全教会の相互関係をより緊密にし、社会にキリスト教の精神を示すことである(make known to societry the spirit of Christianity)」と。
 この同盟には今日までイエス・キリストを神であると信仰告白する人々も、その神性を認めない人々も所属していた。前者に属する多くの人々はこのような合同を好ましく思っていなかった。このため、四月一二日の会議では、この第一項に「福音の諸原理を保持する者とは、人々を救うためにこの世に降りしイエス・キリストは神であることを信ずる者のことである」という説明を補足すべしとの提案がなされた。熱い議論が起こった。結果としては、採決に必要な票数が不足したために、提案は否決された。同盟会の憲法にしたがえば、三分の二の賛成票がなければ、憲法の諸規則になにも付け加えることができないことになっていた。本提案にたいしては、賛成が八一票、反対が四四票であった。これは土曜日のことである。
 ところが四月一四日月曜日に、もし土曜日に否決された提案が採択されなければ、同盟会の議事は停止される(will be brought to a standstill)という口実により、それがふたたび総会で提案され、議論もなく投票され、三分の二を優に超える大多数の賛成によって採択されたのである。“Japan Evangelist”〔『ジャパン・エヴァンジェリスト』〕誌(Vol.IX,N5,May)は総会レポートのなかで、この決定を摂理(Providential)の働きと呼んでいるが、ヴェント師は摂理のこうした冒涜を嘲笑してこう言っている。「土曜日には摂理が一つの決定を下したが、月曜にはそれにまったく矛盾する決定を下した。ならば、組合派がとりわけ強く、数も多い大阪の次の総会では、摂理はおそらくまた以前の決定に戻ることだろう」。さらにヴェント師は同胞者の思想の自由を抑圧する人々と「福音」という語の定義の狭さにたいして憤慨している。
 これに関しては『六合雑誌』がそれにもまして憤激をあらわにする。この雑誌は正統派のこの決定を、中世を思わせる異端弾圧であると、論文「福音同盟会の異端征伐」のなかで称している。これは総じて、プロテスタント自身に「同盟会はキリスト教徒を緊密な絆で結びつけることを主たる目的としてはじまったものの、けっきょくはかれらをあらんかぎりの相互反目へと導く結果となった(The Alliance, which began by making it its chief object to unite Christians in closer ties, has ended by setting them at loggerheads as much as possible)」ことを自覚させようとするものである。イエス・キリストの神性を信じない人々は、たとえば、海老名〔弾正。日本組合監督教会牧師〕や植村〔正久。日本基督教会牧師〕たちのようにたいていは組合派に属している。そこでこれら本質的にはキリスト教徒でない人々を福音同盟会から除名しようという大がかりな憤激がわき起こっているのだ。まったくプロテスタントには唖然とさせられる。かれらは人類のキリスト教化を掲げながら、このような錆びついた俗信によって、核心から遠ざかっていくことになる。
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まったく同時期に、これだけの規模の会議が神田と横浜で開催されるということも考えにくいですから、同じ集会と見做してよいのでしょうね。
私もプロテスタントの理論面は全然分かりませんが、植村正久が組合派というのはちょっと変ですね。

海老名弾正(1856-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%90%8D%E5%BC%BE%E6%AD%A3
植村正久(1858-1925)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E6%AD%A3%E4%B9%85
植村・海老名キリスト論論争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E3%83%BB%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%90%8D%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96%E8%AB%96%E4%BA%89
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)

2020-01-16 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月16日(木)11時19分5秒

長縄光男『ニコライ堂の人々』、そして『宣教師ニコライの全日記 第3巻』のニコライ富岡訪問記に寄り道してしまいましたが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)に戻ります。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c78804ced09dd20c5ec03ecebd7d28b

(その9)で引用した部分の後、中村氏はニコライが「神の世界を讃えてそれに触れる儀礼」である「奉神礼」を重視したことを述べ、次のように続けます。(p226以下)

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 明治の史家竹越與三郎は明治末の正教会の教勢が衰えていったのは「その儀式繁縟にして、邦人に解せざりし」がためだと言っている(『新日本史』)が、しかし、ニコライに言わせれば、ニコライがトルストイを批判するのも、トルストイが教会の儀礼と神の世界の神秘を否定し、簡略化した聖書を編み道徳を説いたからであった。
 ニコライが、日本でアメリカ人やイギリス人のプロテスタントの宣教師たちと頻繁に往き来し、親しい友人もできて自身の見解も広がったにもかかわらず、「プロテスタントでは宗教的な渇きは癒されない」と感じたのは、当然なのである。
 プロテスタンチズムは、宗教とはいっても近代合理精神を肯定し、信仰の近代化を行ない、神秘や儀礼に依存する面を少なくし、新約聖書を倫理規範として個人の良心や合理的正義や知的向上性や実践倫理を強調する教えとなった。それは現世の人間中心の教えである。だがニコライは、そこが私には不思議な魅力なのだが、性質は開明的で勤勉で自立心も強いのに、そういう近代的宗教の人ではなかった。プロテスタントの教会の「メモリアル・サーヴィス」に参列するたびに、その式があまりに現世的であることに、儀礼があっさりしていて永眠者との親近感が薄いことに、ニコライは不満を感じている。
 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。
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竹越與三郎は、少なくとも若い頃は自身が熱心なプロテスタントの信者ですから、竹越から見ればロシア正教は「その儀式繁縟にして、邦人に解せざりし」という評価になりますね。
竹越の評価がプロテスタント的偏向であるのに対し、「宗教とはいっても近代合理精神を肯定し」以下は、ドストエフスキーに心酔していた中村健之介氏のドストエフスキー的偏向の気味が若干あるような印象を受けます。
ま、プロテスタントの人から見れば、そんな単純ではないよ、と言いたくなる部分があるでしょうが、私にはよく分かりません。
「メモリアル・サーヴィス」、即ち葬儀については、正教の荘重な儀礼に魅力を感じた人は多いようですね。

竹越與三郎(1865-1950)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E8%88%87%E4%B8%89%E9%83%8E

さて、プロテスタントとの関係について、もう少し中村氏の説明を見ておきます。(p228以下)

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反世俗化、反啓蒙

 そのような宗教らしい宗教の徒であるから、ニコライは当然、反世俗化であり、反啓蒙であった。
 一九〇二(明治三五)年四月、神田の青年会館でプロテスタントの日本人牧師たちが集会を開き「イエス・キリストは神か、神ではないのか」という題で論議した。そのことを知ったとき、ニコライは「キリスト教の伝道にとって恥辱というものだ! プロテスタントは、鉄が錆に侵されるように疑いによって蝕まれている」と怒り嘆いている(一九〇二年四月一五日)。
 同じ年の三月、その年七月に開かれる公会に全国の伝教者が駿河台へ集まるのを機会に、いわば伝教者の再教育のためのセミナーを開こうという計画が持ち上がった。神学校の教師たちに講義してもらうのはよかったのだが、正教青年会の会長ワシリー山田が「数名の大学教授も招いて、経済学、民族誌学〔エトノグラフィヤ〕などの講義をしてもらおう」と提案した。その提案を聞いてニコライは怒る。
 「何と恥かしいことだ! ワシリー山田を呼びつけて気球で空中を旅するようなことをするな、ばかなことを計画するなときびしくしかった。……神学校の教師たちの講義は宗教に関するものだろうから、伝教者たちは、まじめに聴けば、何か新しいことや必要なことを学び、前に習ったが忘れたことを復習することにもなるだろう。しかし経済学その他について、益もなく後で活用することもできないおしゃべりを半時間聴いてどうなる。自分自身をも全人類をも猿の子孫だと思っているような無神論者たちを招いて、くだらないでっちあげをしゃべってもらうなんて! そんなことをするなんぞ、考えるのもごめんだ!」(一九〇二年三月一三日)
 ロシア人宣教師ニコライは宗教の中にいた。日本人ワシリー山田は文明を求めていた。ニコライが拠って立っている「本当のキリスト教」からすれば、「キリストは神か否か」という議論はもちろん、伝教者に対する経済学の講義も、神を辱めるものであった。
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いったん、ここで切ります。
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その3)

2020-01-14 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月14日(火)22時25分21秒

ニコライの富岡訪問記、もう少し引用します。
「さまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです」と語る杉田へのニコライの対応です。 (p238以下)

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 「おまえが解明したいと言っている問題が宗教的な問題であるならば、それを解くために永生〔来世〕があるのではないか。この世では、問題解決のよろこびを先取りして予感できるために、必要最低限の知識しかわれわれには与えられていない。問題の完全な解明がなされるのは、真理の源である神のもとに行ってからだ。おまえがこの世でできるかぎり研究をしたいというのなら、それならおまえのための道を教えよう。もう一度伝教学校へ来なさい。伝教学校ではいま、おまえが学ばなかった基礎神学を教えている。その他にも、おまえの在学中にはなかったいろいろな科目がある。教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている。そういう教師たちの助けがあれば、おまえは、ここで暮らしてやっているよりもずっとよいかたちで自分の疑念を鎮めることができるし、問題の解決もうまくやれるようになる。
 杉田は考え込んでしまった。どうやら杉田はすっかり道を見失った人間ではないらしい。杉田の友人のもう一人の離反者、パウェル西岡が杉田を惑いに引きずり込んだに違いないのだが、西岡のような頑迷な高慢さは杉田にはない。
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舌鋒鋭く杉田を批判したニコライは、口調を変えて、杉田にもう一度学校に戻って基礎神学その他を学び直すように提案します。
杉田は1892年(明治25)に26歳ですから、満年齢ならば1866年(慶応2)生まれです。
「教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている」とありますが、1883年にロシアに留学して87年に帰国し、神学校教授となった三井道郎(1858~1940)を始め、確かに既に複数のロシア留学組が存在していますから、かつて杉田が学んだ頃よりは相当充実した教育体制になっていたのでしょうね。
さて、次に杉田の再婚問題についてです。

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 「もう一つ言っておきたいことがある。キリスト教徒の家族を惑わすな、神のいましめに逆らう罪へ引き込むな。亡くなった妻の妹と結婚するという考えは捨てなさい。滝上の家の者たちの親切は、亡き妻の身内の親切だと思いなさい。その親切に対して、滝上の家の者たちを罪に引き込むという悪をもって報いてはならない」
 これに対しても杉田はなにも言わなかった。わたしはさらに長いことかれを説諭した。その後、杉田は物思いにふけっている様子で立って行った。「あしたの朝、お返事します」とかれは言った。わたしは、そんなに急いで返答しなくてもよい、ただし、よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさいと言った。
 それからイオアン滝上を呼び、妹を杉田と結婚させないように、そんなことをして妹を傷つけないように、なぜなら神の命令にまったく反する結婚に神の祝福が与えられるはずがないし、その神の命令をよく知る人々からも祝福がえられるはずがないから、と説いた。すこしずつ母親と父親にはたらきかけて、この結婚について考えを変えてもらうようにせよ、とイオアンに助言した。
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急ぐ必要はないが「よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさい」というニコライの指導は、厳格でありながら暖かみも感じさせます。
また、イオアン滝上に対する「すこしずつ母親と父親にはたらきかけて」云々との指導も、宗教上の原則を単純に押し付けるのではなく、人間関係に配慮した実際的な工夫を加味しており、ニコライの洞察力の鋭さを感じさせます。
そして、更に杉田が引き起こした信徒間の混乱をいかに終息させるか、という難題が残っています。

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 晩の七時から、ペトル滝上の家で異教徒を相手の説教がはじまった。集まったのは、信徒をふくめ、約六〇人。杉田はかつてここの伝教者であった。それがいまはキリスト教の信仰の敵となっている。その杉田のゆえに、ここは動揺が生じかねない状況になっている。説教の目的は、いくらかは、その動揺を抑えることであった。だから、信徒のほとんど全員が聞きにきていたのはよいことだった。
 まず伝教者のイグナティ向山が話した。上手だった。ただ、例と説明があまりに長すぎる。森に隠れて家が見えない、ということがしばしばあった。わたしは初心者向けの、神と救世主についての説教をした。ただしここでの必要に合わせて話した。
 説教が終わると、兄弟たちは簡単な親睦会を開いた。歓迎の辞が述べられた。わたしは「講義」を行なうよう説得した。ここには成人男性が一五人、女性が一三人もいるのだから。兄弟たちはすぐ聞き入れ、次の集まりのために、三人の「講義者」と「幹事」を選んだ。いまは完全に暇な時期だから、集まりは月に二回、第二と第四の日曜に開かれることになった。女性信徒たちは、そのあとで向山の助けを得て、「講義会」を開くことにする。今回は女性の出席者は少なかった。
 伝教者の向山は田篠を三週間に一度訪ねることにする。毎月第三日曜にここで兄弟たちとともに祈祷を捧げ、訓話をする。確実に実行するよう、向山に旅費を出すことを約束した。それ以上は、いまはこの教会にしてやれることはない。またすっかりさびれた富岡の教会のためには、何もしてあげられない。この大きな町に伝教者が必要なのだろうが、それがいない。
 夜の一二時、きびしい寒さのなかを富岡へもどり、そこに泊まった。
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ということで、ニコライの配慮のキメ細やかさには驚くばかりです。
この田篠の例から伺えるように、いったん相当数の信徒を獲得したとしても、それを安定的に維持するのは大変なことですね。
田篠の組織がどの程度続いたのかは知りませんが、おそらく日露戦争・ロシア革命を経て信徒は激減し、現在は一人も存在していないのではないかと思います。
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その2)

2020-01-13 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月13日(月)20時42分31秒

イサイヤ杉田がニコライから「おまえの知能はごく月並みなものだ」「おまえは学問の人間ではない」「おまえがいまやっている勉強は、単なる時間のむだ遣い」とボコボコに叩かれているのを見ると、「二六歳にもなって居候をしておる」立場とはいえ、杉田がいささか気の毒になってくるような展開ですね。
さて、前回投稿で杉田がユニテリアンの信者では、と書きましたが、「キリストは信じております。ですが至聖三者〔三位一体〕については、わたしにはわたしなりの考えがあります」とのことなので、「自由キリスト教」の他の二派、即ちドイツ普及福音教会またはユニバーサリストの可能性もありそうです。
もちろん杉田は特定宗派に確信を持てた訳ではなく、まだまだ宗教的・思想的な混乱の渦中にあるのでしょうが、「立派な背表紙の本を何冊も机に積み上げている。それが全部ドイツ語の本なのだ!」となると、ドイツ普及福音教会に一番親和的のように思われます。
とすると、同志社に学ぶ中でキリスト教に懐疑的になり、ドイツ普及福音教会を経て、やがて棄教して金融の世界に転じ、最後には日銀総裁にまでなった深井英五(1871-1945)を連想させますね。
「さまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです」と語る杉田の心境は、宗教的・思想的変遷を重ねた深井英五と共通していそうです。

「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d
「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dba8684a32224ba07f9d5669214ebcee
「マルクスの著作の訓詁」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5842d14e9ed0509c11313c5091ba93d
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caa939de572224d0778a282b372bfddf
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34b1e7e6eca291c2adcbfaf5fcb38167
『日本に於ける自由基督教と其先駆者』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b7538250dc17e008116840e7344e915
深井英五と井上準之助
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514e0313f20fb94a93256f796aa4e1c6

杉田がどのような人生を送ったのかは分かりませんが、深井英五レベルの知性ではなさそうですから、おそらく「哲学の著書」を出すこともなく、歴史の中に消えていったのだろうと思います。
ただ、この種の「高等遊民」的な「煩悶青年」がある程度の層をなしていたからこそ、例えば萩原朔太郎(1886-1942)のような優秀な「高等遊民」も生まれてくる訳で、文化的な観点からは杉田のような存在を必ずしも否定的に捉える必要はないように思います。

『月に吠える』も500部
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4c8b42f42e6f66175e30dbfabeb57b0

そして、富岡のような地域で、この種の「高等遊民」的な「煩悶青年」がブラブラ生活していることができたのは、結局は生糸のおかげですね。
杉田だって、養蚕で「金持ちの百姓」となった家の婿にでもなって金ヅルをしっかりつかんだら、「二冊も三冊も、いやもっとたくさんの本を出す」ことは充分可能だったはずです。
大雑把に言って生糸の製造原価の8割強は原料繭の購入代金であり、出荷額と比較しても、その8割弱が原料繭の購入代金です。
それだけの金が農村に廻って行きますから、近代製糸業は地域全体を豊かにしてくれる本当に特別な産業だった訳ですね。

「おーい中村君」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37e1ab65783dc1e9abdf21d4fc00b342
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その1)

2020-01-13 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月13日(月)12時02分38秒

早く「国家神道」を検討しなければ、と思いつつ、なかなかニコライ沼から抜け出すことができなくて、今は郷土史的な関心から、ニコライの群馬県内訪問の記事と『前橋正教会百年の歩み』(深沢厚吉、1985)等の地元の正教会関係の記録を照らし合わせる作業をしています。
ニコライは1892年12月5日、富岡製糸場も見学していて、その記述は、

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 きょうの廻家訪問のしめくくりに、日本最大というここの製糸工場〔富岡製糸場〕を見学した。二〇年前政府によって、国民に示すモデルとして建てられた工場である。いまだに官営である。これを建てここを運営するために、フランス人が招聘された。フランス人たちの長であるムッシューBrunat〔ブルナ〕の名は、いまも生糸の梱包の送り状に印刷されている。この工場には三〇〇人の若い女性が働いている。繭をほぐし、四本の絹糸を合わせて糸にし、糸を巻いた綛〔かせ〕を作り、一本一本のかせの重さを計り、アメリカとフランスに送るために梱包する。ここの生糸はすべて予約注文が入っている。動力は蒸気である。どうやら工場は最高の状態であるらしい。
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という具合に(『宣教師ニコライの全日記 第3巻』、p239)、筆まめのニコライにしては割とあっさりしています。
しかし、信者への観察は本当に細かいですね。
特に興味深いのは、富岡製糸場の少し東にある田篠という集落での「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」なる人物とのやり取りです。(p236以下)

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一八九二年一一月二二日(一二月四日)、日曜。富岡、田篠。

 朝、聖体礼儀代式を執り行うため田篠へ行った。【中略】質素な田舎の食事をいただいてから、信徒宅訪問に出かけた。福島で三軒、田篠で七軒の家を訪ねた。貧しい家は一軒もない。すべてが裕福な農民だ。すべての家が、農業の他に絹の生産にたずさわっている。【中略】
 イオアン滝上の家へ行ったとき、元伝教者で離教者のイサイヤ杉田に会った。信仰を失ったあと、うわさでは、神としてのキリストを信じない連中の仲間になったという。杉田の妻〔イオアン滝上の妹〕は最近亡くなったのだが、かれはその妻の妹と結婚しようとして、いま滝上の家に身を寄せている。伝教者の向山が杉田に、その結婚は教会法に反していると言ったところ、杉田は自分は教会を捨てたのであり、教会の法を信じてはいないと答えたという。滝上の家の者たちは信徒になったばかりで、教会の掟に服することがいかに重要かわかっていない。滝上の家族のなかで母親が断然この結婚を望んでいる。なぜか? 杉田は士族の生まれで、哲学を勉強しているのだ。立派な背表紙の本を何冊も机に積み上げている。それが全部ドイツ語の本なのだ! 百姓女が自分のこどものためにこの結婚を望まないでいられようか! 早く婚礼を挙げてしまいたかったのだが、運悪く花嫁がまだほんのこどもで、一四歳くらいなのだ。
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「神としてのキリストを信じない連中の仲間になった」というのは無神論者になったということではなくて、当時、プロテスタントの間に動揺をもたらしていた「自由キリスト教」のうち、聖三位一体を認めないユニテリアンの信者になった、ということのようですね。
1887年、アメリカのユニテリアン協会から宣教師ナップ(Arthur May Knapp)が来日して、慶應の福沢諭吉らに支援されて勢力を拡大しつつあったようです。

ユニテリアン主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

もう少し引用を続けます。(p237)

-------
 しかし、わたしは杉田がかわいそうになった。かつてかれが熱心に働いたときのことが思い出された。現にこのメトリカには、伝教者としてのかれの名の下に一〇人以上の正教入信者の名が記されている。わたしは杉田を呼んでくるようにと言った。かれはやって来た。すっかり太ってしまって、髪をのばして総髪にし、やけにしゃれめかしたなりをしている。金持ちの百姓の家に居候するには都合がいい。
「すっかり信仰を失くしたのか?」と尋ねてみた。
「いいえ。キリストは信じております。ですが至聖三者〔三位一体〕については、わたしにはわたしなりの考えがあります」
「だが、むかしはいくらかでも至聖三者も信じておったのではないか」
「そうでした。そうでなかったら伝教者にはならなかったでしょう」
「ということは、信仰が弱くなり、やがてすっかり消えたということだ。至聖三者への信仰がなくては、神としてのキリストを信じることはできない。おまえはすっかり信仰を失ったのじゃ。しかし、回復することは可能だ。それを試みてみないか? わたしはおまえがかわいそうだ。キリストに背いて、おまえはユダの道に入ってしまった。永遠の滅びの道だ。もしキリストのもとへもどる努力をしないと、おまえは滅びの運命をたどる。もどりなさい。使徒たちでさえ信仰の弱さを感じて、<われらの信仰を強め給え>と祈ったことがあった。おまえも祈りなさい」
「いまわたしは学問をやっております。わたしにはわたしなりの目的があります」
「何の学問か?」
「哲学です」
「おまえはいまいくつになる?」
「二六です」
「二六歳にもなって居候をしておるのか! きれいな背表紙の本をたくさん買い、それでその上等な着物とおいしい食べ物を手に入れている。無駄遣いをする金を得て、好きなだけの安楽と怠惰を手に入れている。おまえはそれが好きなのだ」
「ぜんぜん怠けておりません。一所懸命勉強しています。三、四年もすれば、杉田が何者であるか、いかなる才能があるか、わかっていただけるでしょう」
「三、四年したら哲学の著書を出すというのだな。金持ちの百姓がそのために金を出してくれたら、二冊も三冊も、いやもっとたくさんの本を出すというわけだ。それで自分のうぬぼれ心をなぐさめるわけだ。おまえの書く本は三、四年もすればみんなから忘れられてしまうだろう。おまえにはしっかりした本を書く才能などはない。おまえの知能はごく月並みなものだ。わたしは学校で教えたから、おまえのことがわかっている。おまえは学問の人間ではない。だから、おまえがいまやっている勉強は、単なる時間のむだ遣いではないだろうか。人生の最良の時、働くようにと人に与えられた時間、神と周りの人たちに仕えるための時間、その時間をおまえは浪費しているのではないだろうか?」
「ですが、わたしはさまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです……」
-------

いったんここで切ります。
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「みい」と「みつい」、そして長縄光男氏の誤解(その3)

2020-01-12 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月12日(日)12時19分14秒

昨日、長縄光男氏に対するイヤミを念入りに書いてしまったので、自分の方が何か誤解していたら恥かしいなと思って原杢一郎編『原敬日記 第8巻』(乾元社、1950)を確認してみましたが、やはり米騒動関係の話であることに間違いないですね。
「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」が登場するのは1919年(大正8)1月15日ですが、前年12月25日に、

-------
〇二十五日
【中略】
 田中陸相来訪(過日来病気)西伯利より半数已上撤兵の事は裁可を得たるに因り参謀本部に通牒して其処置を取る事となせり。予め参謀本部等に相談せば種々の議論もあるべしと思はれたれば決定後に之を公示し一切の議論を抑止せりと云へり、同時に田中は先頃より問題となり居る米輸入の件に付軍事協約を利用し支那内地より買入れて満洲に集むる事となせば約百万石は得べしと思ふと云ふに付予は賛成を表し速かに着手すべしと云ひ置けり。【中略】
 高橋蔵相田中陸相より米買入の内談を受けたりとて米産額等の諸表も携帯して来訪、山本農相も来会して種々の協議をなしたり、山本は高橋が農商務省の調査に反して米の不足にあらずと諸表に就き論ずるは不平にてもあらんか、米穀の事は価格に関係するが故に大蔵省にて爾後担任せば如何と云ふに付、余は官制上許さざる所なる事を説示し、尚ほ米穀の問題は内閣総掛にて措置を取るを要すれば閣僚中にも熱心に講究する事となりたれば力を合せて之が処置を取るべし、陸相の買入談も至急着手せしむべく又陸相が馬糧に是迄の麦使用を高粱使用に変更すと云ふことも直に実行するを要すとの趣旨を説示し、要するに余も産米の不足とは思はざるも上下不足を訴へ居る今日なれば米を潤沢にするは第一の急務にて、且つ政治の要は人心をして安定せしむるに在れば悲観説を述べて徒に人心を不安に陥る事を避くべしとの方針を縷示したり。
-------

とあります。(p121)
米騒動は1918年7月に始まりますが、原敬が首相となった同年年9月末の時点では暴動は既に終息しています。

1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

そして、年末の時点では米それ自体も不足していないようですが、原は「余も産米の不足とは思はざるも上下不足を訴へ居る今日なれば米を潤沢にするは第一の急務にて、且つ政治の要は人心をして安定せしむるに在」るので、「内閣総掛にて措置を取るを要」し、田中陸相の「軍事協約を利用し支那内地より買入れて満洲に集むる事となせば約百万石は得べし」という提案も「至急着手せしむべく」と指示する訳ですね。
長縄光男氏が引用した記事だけでは、何故に陸軍大臣の田中義一が出て来るのかが分からず、あるいはシベリア出兵がらみなのかと思いましたが、シベリア出兵とは直接の関係はなく、米輸入が内閣全体の緊急課題なので田中も関与しただけですね。
年が明けて正月7日には、

-------
【前略】糧食問題に付高橋蔵相は決して米穀の不足なき事を主張したるも、産米の不足と否とを論ずるより先日決定通此際朝鮮台湾は勿論何れの国よりにても米を輸入して国民に安心を与ふるを必要とす、世間米価に付て騒然たるも実は数字の問題にあらずして世間は之を政略問題となし居れば其積にて考案するの外なし、閣員其心すべきものなりと注意したり。
-------

とあり(p128)、原の明晰かつ強力な指導力が窺えます。
また、10日には、

-------
 午前閣議を官邸に開らく、議会に於ける米問題に付山本高橋の意見根本的に相違に付答弁二途に出ては妙ならずと考へて両人に注意せしに、高橋蔵相は此問題は一切山本農相に譲りて自分は一言せざるべしと云へり。仏領印度は我政府の請求より米の輸出禁止を解除せりとの公報に接し内田外相之を披露せり、又田中陸相は支那に於て米輸出を承認したれば三井の手にて価の少々高き位は頓着なく速かに買入せしめては如何と云ひ一同異議なく、又前回問題となりし朝鮮米は兎に角陸軍に於て買入宇品港に輸入する事となしたり、山本農相如何にも熱なきも閣僚進んで其途を講じたれば米の輸入は益々増加するならん、
-------

とあり(p132)、ここに「三井の手にて価の少々高き位は頓着なく速かに買入せしめては如何」と初めて「三井」の名前が出てきます。
そして、これは15日に登場する「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」ではありえません。
ということで、「みい」「みつい」問題は疑問の余地なく解決しました。
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「みい」と「みつい」、そして長縄光男氏の誤解(その2)

2020-01-11 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月11日(土)11時11分18秒

続きです。(p222)

-------
 次いで同月十七日。

  午后山本農相犬塚次官を招致し、高橋蔵相も来会して陸軍に於いて支那米買人【ママ】(先ず五十万
 石)に関し、軍用上必要として買入宇品まで廻送同処に於いて保管転管をなし農商務省に於いて
 売却する事の話手続内定す。余より農相に対し三井に命じて現に約定あるものの外に百万石買入
 輸入の協議をなすべき様申談したり。

 この話の顛末について、遺憾ながら著者は当面調べる術を持たない。
 一九二二(大正十一)年十月、シベリア出兵の日本軍は全面撤退。四年に及ぶ空しい戦いが終わり、この間に道郎も還暦を五つ過ぎた。
-------

うーむ。
1月15日の「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」はもちろん三井(みい)道郎のことですが、「山本農相の来訪を求めて米買入れの状況を聞きたるに」という話の中で「三井に相談の上必要なれば政府より命令して買入れしめ損失あれば政府之を補填するの条件にて相談を進むべし」と出てくる「三井」、そして1月17日に「余より農相に対し三井に命じて現に約定あるものの外に百万石買入輸入の協議をなすべき様申談したり」と出てくる「三井」は明らかに財閥の三井(みつい)のことですね。
貿易関係なので、具体的には三井物産のことかと思います。
念のため『原敬日記』を確認しようかとも思いましたが、まあ、わざわざ確認せずとも、50万石、更に100万石という膨大かつ巨額の米の買入れに「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」が介在できるはずがありません。
しかし、長縄氏の長い引用と、「この話の顛末について、遺憾ながら著者は当面調べる術を持たない」といった何やら意味深長な表現を見る限り、長縄氏は「みい」と「みつい」を混同されているようですね。
長縄氏には社会常識がないのか、おっちょこちょいなのか、あるいは両方を兼ねているのか分かりませんが、いったいどうしてこんな誤読ができるのか、ちょっと不思議です。
1月4日の投稿でも引用したように、長縄氏は、

-------
 しかるに、東北地方というのは近代化から大きく取り残された地域であり、近代に入っても幾度となく飢饉に苦しまねばならないほどに貧しい農業地帯の一つであった。もっとも、白河のような繊維工業の栄えた町に正教会が信徒を得ていたという事実はあるにしても、この町の産業も明治の半ばごろには衰退して行ったのである。概して、東北地方には大規模な近代産業が興る基盤がなかったということができる。ということはつまり、正教会は将来の「ブルジョワジー」をその信徒とする可能性を持たなかったということを意味している。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc832275c2197e38bfe5f4f5fbf1812f

などと書かれていて、ずいぶん単純な図式で東北地方の近代産業史を捉えていることに驚きました。
長縄氏が「白河のような繊維工業の栄えた町に正教会が信徒を得ていたという事実はあるにしても、この町の産業も明治の半ばごろには衰退して行った」という誤解をどのように形成したのか、「遺憾ながら」私は「当面調べる術を持たない」のですが、こちらは近代製糸業への『あゝ野麦峠』的な誤解の影響かもしれないな、という感じがします。
ただまあ、長縄氏自身が翻訳に参加されている『宣教師ニコライの全日記』を読めば、東北地方でも、少なくとも製糸業と養蚕に関わっている地域は相当豊かであることは自ずと感得されるのではないかと思うのですが。
長縄氏もなかなか謎めいた人で、特に「みい」と「みつい」は永遠の謎となりそうです。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc41bdd5e500d67043621a5114e098a3
中林真幸『近代資本主義の組織』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eba774a36beb84acfef63794e27d6cc9
中林真幸『近代資本主義の組織』の書評比べ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/003902c1a78eedd67c9c3b4ce64581b3
設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8ee2cf121a12cc91b07e4be9bb165e
「おーい中村君」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37e1ab65783dc1e9abdf21d4fc00b342
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「みい」と「みつい」、そして長縄光男氏の誤解(その1)

2020-01-10 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月10日(金)11時00分27秒

ちょっと脱線気味の話になります。
昨日の投稿で引用した「うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている」(p226)という部分、気になるので確認したいのですが、出典が明記されていません。
長縄光男氏の『ニコライ堂の人々』(現代企画室、1989)に付された年表を見ると、三井道郎が輔祭に叙されたのが1894年1月、司祭に叙されたのが翌2月なので(p245)、『宣教師ニコライの全日記 第3巻』(1891年9月~1894年)を見てみましたが、残存状況が悪いのか、1894年(明治27)は極端に日記の分量が少なくて、一年を通して僅か9日分、6ページ程しかありません。
そして、その中には上記やり取りは出ていないので、三井が残した記録にあるのかなあ、と思って探しているところです。
ところで、『ニコライ堂の人々』の「はじめに」には、

-------
 物語りには主人公が要る。私はその役割を、さしあたり西面三井道郎〔シメオン・みい・みちろう、あるいは、どうろう〕という一人の神父に託した。
「長司祭・シメオン・三井」といえば、明治・大正・昭和の三代を通じてニコライ大主教とセルギイ府主教という二人のロシア人宣教師を補佐した正教会の重鎮として、教内では並ぶもののない盛名を馳せた神父なのだが、遺憾ながらその盛名も教外にまで及ぶには至らず、たとえば『昭和物故人名録』(日外アソーシエイツ、一九八三年)の中では生年は不詳とされ、姓も「みつい」と読まれている有り様である。【後略】
-------

とあります。(p18)
1858年(安政5)に盛岡で生まれた道郎の父・三井与次郎兵衛は南部藩で「在所の御代官」と勤めていたとのことなので(p21)、相当の家格であり、「三井(みい)」という姓にもそれなりの由来があるはずです。
しかし、奥羽越列藩同盟に入って、討幕派に寝返った秋田藩を攻撃し、敗北した南部藩の運命は苛酷で、道郎もなかなか教育の機会に恵まれず、正教会に近づいたのも安い費用で新知識を得ようとした、という理由がけっこう大きいようです。
その経緯は、南部藩の家老の家柄に生まれながら、資力不足から「あるカトリックの司祭の学僕として済み込み、将来への道を切り開いた」(p26)、平民宰相・原敬と良く似ています。

原敬(1856~1921)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

同郷で年齢も原敬が道郎より二歳上と近い二人ですが、宗教界という特殊な世界に進んだ道郎と原との交流は乏しかったようですね。
ただ、長縄氏によれば、1919年(大正8)の『原敬日記』に道郎が登場するそうです。
この頃、ロシア革命に危機感を抱いていた日本の正教会は、日本政府のシベリア出兵に実質的に協力する形で、慰問物資とともに神父四名をロシアに派遣します。
そして道郎はハルビンからチタ、イルクーツク方面に向います。(p220以下)

-------
 道郎たちがシベリアにあった頃、国内では「米騒動」を契機とした政変があり、原敬内閣が誕生していた。原敬といえば南部藩の先輩でもあることから、年が明けて大正八年一月十五日、道郎は報告をかねて原を訪問した。以下『原敬日記』からの抜き書きである。宗教が政治の思うままに繰られる有り様が見てとれるのが面白い。まず十五日の項から。

  ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)前内閣外相の内命を受けて西比利亜に出張して帰りた
 る者来訪。彼地方に於ける実況を内話し且言語不通風俗異なりたるが為に兵士と地方人民との間
 に衝突多き実例を内話せり。田中陸相にも談話すべしと注意し、田中にも其旨話し置けり。……
  山本農相の来訪を求めて米買入れの状況を聞きたるに、政府の手にて買入れの外なき事を提議
 せしも、余は先般来内定の通商人をして買入しむるを可とす。故に三井に相談の上必要なれば政
 府より命令して買入れしめ損失あれば政府之を補填するの条件にて相談を進むべし。政府直接買
 入れは最後の事なりと申し含めたり。
-------

いったん、ここで切ります。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その9)

2020-01-09 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 9日(木)12時27分59秒

ニコライの日記は、そのまま短編映画のシナリオにでもなりそうな部分がたくさんあって、ついつい読み耽ってしまうのですが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その6)で紹介した部分の続きです。(p222以下)

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 一九世紀ロシアの知識人には、自国の支配体制の柱であるロシア正教会から真理の声を聞いているという実感はすでになかった。「イコンが役に立つのは壺の蓋としてくらいのものだ」とベリンスキーは言ったという(ピリントン『イコンと斧』)。その点ではかれらは「異端者たるヨーロッパ人」に近いように、一見みえる。
 しかしかれらは、宗教はもっぱら「心の問題」にかかわる一種の道徳なのだとは考えていなかった。そういう世俗化された世界観の持ち主ではなかった。
 ロシア正教が近代化されない宗教であり、それがロシア文化の最大最深の共通の器であったことの当然の結果として、反教会の知識人にとっても宗教とは、あくまで全存在と永遠の生命にかかわる答えであった。それは良心や社会道徳を保障する制度ではなかった。だから、かれらが国教正教会を拒否してあこがれ求めた「社会主義」は、かれらにとって、経済学説ではなく、万物を救済する教えとなった。ドストエフスキーは、ロシアにおいては真剣に神の存在を問わずにいられないがための無神論者がいるとくりかえし語ったが、実際そういう、神なしではいられない無神論者がたくさんいた。
-------

この後もドストエフスキーの専門家である中村健之介氏らしい分析が続きますが、私はロシア文学に疎いので、あまり理解できません。
理解できないまま引用するのも気が引けるので、3頁分ほど省略して、ニコライと三井道郎神父のやり取りに移ります。(p225)

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 ニコライにとって、神の世界は神学上の虚構ではなく、生動しているすばらしい実在であった。そしてキリスト再臨の前に現われてこの世を悪で充満させるという「アンチキリスト」も実在だった。うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている。
 だから神の世界を讃えてそれに触れる儀礼「奉神礼」は、なくてはならないことであった。奉神礼をあげることが、神に仕える者の勤めであり、喜びなのである。病気でこの「お勤め」が果たせないとニコライは気が沈む。「ふつうの主日〔日曜〕でも奉神礼をしないでいるとたんへん気が沈む」(一九〇四年四月一〇日)。逆に、つらいことがあっても、奉神礼によって気持ちが立ち直る。奉神礼によって「翼が現れて……気分がすっかり変わった。これが神の助けでなくて何だろう」(一九〇〇年五月三〇日)
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三井道郎(みい・みちろう、1858~1940)は長縄光男『ニコライ堂の人々─日本近代史のなかのロシア正教会』(現代企画室、1989)の主人公で、南部藩士の家に生まれ、駿河台の正教神学校を経てロシアに留学し、キエフ神学大学を優秀な成績で卒業した人です。
長縄氏によれば、

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 道郎はキエフの神学大学における日本人留学生の皮切りであったことから、彼は大学内のみならず、いまだかつて日本人というものを見たこともない一般社会の人々にとっても「唯一の日本人の標本」として大変に珍しがられたという(瀬沼恪三郎「故三井神父の追憶」『正教時報』昭和十五年三月)。痩せぎすではあったがロシア人に伍しても決して見劣りすることのない六尺を優に越す長身、好男子に属する風貌、それに何よりも磊落な性格が人に愛され、学の内外を問わず多くの人々と親交を結んだ。後にキエフに学んだ者たちに行田義雄、西海枝静、小西増太郎、それに瀬沼らがいるが、彼らは皆、三井の遺した人脈に拠り余恵にあずかることもしばしばであった。
-------

とのことで(p95)、1858年生まれで「六尺を優に越す長身」ですから、相当目立った存在だったようですね。
長縄氏の『ニコライ堂遺聞』(成文社、2007)の表紙に再建当時のニコライ堂の写真が出ていて、前列中央・セルギイ府主教の右横に日本人離れした風貌の長身の人物が立っていますが、これが三井道郎です。

http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-915730-57-3.htm
http://www.seibunsha.net/books/57l.jpg

三井のような正教会のエリート的存在であっても、ニコライにとって当たり前であった正教の核心部分は理解できなかった訳ですね。

三井道郎(1858~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%81%93%E9%83%8E
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その8)

2020-01-08 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 8日(水)10時15分21秒

前回投稿で紹介したニコライの1889年9月12日の日記では、「他会派と比較して、正教の宣教団はどうしてこれほどまでに成功をおさめているのでしょう。宣教師は二人しかいないし、資金も少ないというのに、一万七〇〇〇人もの信徒がいるなんて!」と驚く聖公会のロンズデールに対し、ニコライは自信たっぷり、上から目線で対応していますが、そうかといってニコライが正教会の現状に満足していたかというと、そんなことはありません。
ニコライのもとには全国各地の信徒から様々な要望・相談・トラブル報告が毎日毎日、高波のように押し寄せており、日記にはその一つ一つについての対処が詳細に記され、ついでに口には出せない不平不満・困惑・激怒が山のように記されています。
ロンズデールについて記した9月12日の直前、9月5日にはその典型のような記事があります。(第2巻、p274以下)

-------
一八八九年八月二四日(九月五日)、木曜。

 憂鬱だ、気が滅入る。身の置きどころがないほどだ。日本広しといえども、わたしほど苦しんでいる者はいないだろう。日本人にはだれにでも、きちんと決まった為すべきことがあり、外国の宣教師もみな、自分の仲間を持っている。だから、仮に悲しいことがあったとしても、それをお互い分かち合い、荷を軽くすることができる。だが、わたしはいつまでたっても一人だ。悩みや悲しみや重い心を分かち合うべき友がいない。なのに、為すべきことはとりとめもなく、それが今どこまで進んでいるのか、そこから何が生まれるのか、さっぱりわからない。良い兆候があると幸せだが、よからぬ兆候だと地獄の苦しみだ。そして為すべきことは際限がなく、何が為されたのか皆目わからず、いくら考えても、いくら努力しても、始まりの礎が据えられたとすら言うことができない。
 神よ、あなたに仕える人々はどこにいるのでしょうか。聖職者も伝教者も一人としてまともな者はおりません。一人として慰めになる者はおりません。新妻神父すら凡庸で、なにをやらせても埒が明かない。人の上に立つ指導者としては役に立たない。生徒たちも無能でお粗末だ。われわれの学校に潜り込んでくるのは、どこにも行き場のない連中ばかりだ。だから、あの手の連中に期待することなどできはしない。ロシア人についても言うべき言葉もない。空っぽだ。
 それなのに大聖堂の建設は進み、まもなく完成するだろう。だが、そこでだれが祈るというのだろう。こんなものを造るなんて、正教にとって恥ではないのか。だが、そうだとすれば、なぜこれまで万事うまくいってきたのだろう。果たしてこれは神のご助力というよりは、試練ではないのか。だが、それはだれに対する? わたしが鞭打たれるいわれはない。そうでなくともわたしは全身鞭打たれているのであり、正教会にしても、まだ侮辱され足りないのだろうか。しかし、主よ、この僕〔しもべ〕を完膚なきまでに打ち据えるとは、むごすぎではありませんか、なんの慰めも与えぬままに、いつまでもいつまでも打ち据え続けるとは。おお、神よ、なんという苦しみでしょうか。これから先二〇年も地獄の苦しみが続くのでしょうか。
-------

わはは。
「日本広しといえども、わたしほど苦しんでいる者はいないだろう」以下、陰気な記述が延々と続きますが、ニコライが接していた聖職者・伝教者は、敬愛するニコライが自分たちを「一人としてまともな者はおりません。一人として慰めになる者はおりません」などと記していたとは思いもよらなかったでしょうし、また、神学校の生徒たちも、自分たちが「無能でお粗末だ。われわれの学校に潜り込んでくるのは、どこにも行き場のない連中ばかりだ。だから、あの手の連中に期待することなどできはしない」などと評価されていたとは夢にも思わなかったでしょうね。
ただまあ、ニコライは日記をストレス解消の手段としており、こうして日記に不満をぶちまけることで気分転換を図っていたようです。
プロテスタントへの悪口雑言・罵詈讒謗も、殆ど名人芸の域に達していて、けっこう笑えますね。
例えば同じ年の1月25日の日記を見ると、

-------
一八八九年一月一三日(二五日)、金曜。

 プロテスタントは冗談でなく、どうやら日本で三万人にも達しようとしているらしい。皆新聞でこのことを自慢している。三年ほど前にはわが方の半分くらいしかいなかったものだが、いまやわれわれの二倍に増えてしまった。というのは、われわれには全部で一万六〇〇〇人しかいないからだ。しかしながら、この比較対象も、プロテスタントには外国人の男女の宣教師だけでも三〇〇人もいるということを勘案すれば、連中にとってそう自慢できることではない。われわれには全部で三人、しかもたった三ヵ月前に赴任してきたセルギイを入れての話だ。とは言え、プロテスタントがこれからもどんどん増え、飛んだり跳ねたりふざけたりしながら、われわれを追い越して行くだろうということは、疑いない。連中はまったく放蕩息子たちのように、生みの両親のもとを嬉々として遠くはなれ、遺産とそれを思うがままに蕩尽する自由とを手に持っていることで有頂天になっている。かれらはキリスト教の自由をなんと能天気に解釈し、これをなんと無邪気に利用しようとしていることか。この国のプロテスタントのキリスト教徒たちは、キリスト教との血縁を時々は思い出す宣教師たちがこの地にもたらしたプロテスタント的放埓さだけでは足りずに、おれたちは外国人の教師たちがわれわれに示す仕来りや形式のような、どんな規則もいらない、などと喚いている。哀れな連中だ。天なる父によって与えられた自由の財宝を、連中はなんと無分別に浪費していることか! 連中は自由を勝手気ままと履き違え、そのことによって自分たちを惨めな存在にしている。自由というのは則〔のり〕の定める限界の中での、妨げるもののない運動であり生活だ。この限界から逸脱することは自由を失うことを意味する。魚はおのれの自然の力たる水の中にあって初めて自由であり幸せなのだ。しかし、魚がそうすることが自由だという言い分のもとに、岸に跳ね上がってしまったら、自分にとって固有でない、それゆえに自分の運動を圧迫し、束縛し、その命をだんだん苦しいものにし、そしてやがてはその命を奪ってしまうような自然の力の中に落ちるになってしまうだろう。
-------

といった具合です。(第2巻、p244)
これで1月25日の記録の四分の一程度ですが、このあたりでやめておきます。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その7)

2020-01-07 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 7日(火)10時35分59秒

1989年(明治22)というと、もちろん大日本帝国憲法発布の年ですね。
ニコライの日記にも憲法発布の2月11日に、

-------
 日本にとって厳粛にして重要な日─憲法の発布の日。天皇はその統治権の大半を国民に譲った。憲法にはどこにも血がつきものだ。ときとして血が河のように流される。ここではそれが障害なく穏健に与えられ、同じように穏健に受け入れられている。
------

で始まる長い記事があり(第2巻、p248)、非常に興味深い内容です。
また、正教会にとっては、遡ること五年前の1884年3月に起工された復活大聖堂(ニコライ堂)の工事が終盤に入っており、二年後の1891年2月に竣工、3月8日成聖式執行となります。
さて、ニコライの日記、1889年(明治22)9月12日の続きです。
ニコライは9年前のロンズデールとの思い出を書いた後、

-------
そのかれが一昨日わが宣教団を見学に来たので、見せてやった。足場の上に連れてゆき、質問に答えて宣教団のことを話してやり、教会の統計表と給料表とをあげた。きょうもまたいくつか説明してほしいというので、説明してやった。説明せずにいられないではないか。「他会派と比較して、正教の宣教団はどうしてこれほどまでに成功をおさめているのでしょう。宣教師は二人しかいないし、資金も少ないというのに、一万七〇〇〇人もの信徒がいるなんて!」。わたしはさらにこの地の正教にとって不利な事情を付け加えた。カトリックやプロテスタントが文化の最も進んだ国々から来ているのに対して、正教は文明の最先端を行く国からきたわけではないのだ、などなど。「それではこの成功はいったいどうやって説明するのですか」。正教の教理がカトリックやプロテスタントの教理よりも確固としているからだ、という理由以外にどんな理由があるというのか。とは言え、われわれがここでキリストの教えを同じ一つの言葉で宣教していないというのは、なんと悲しいことだろう。そして、わたしは前橋の Jeffreys〔ヘンリー・スコット・ジェフェリス、米国聖公会の司祭〕のことを例に挙げ、わたしとしてはかれのような人に、わたしたちの教会で話してもらうわけにはいかないという話をした。たとえば、わたしたちの司祭が教理には二つの出所があるという話をしているのに、かれは一つの教理についてしか話さないし、わたしたちの司祭が七つの機密について話すのに、かれは二つしか話さない。これでは聴いている人たちはどんな印象をもつことになるだろう。これにはロンズデールも同意しないわけにはいかなかった。
-------

と続け、これで9月12日の記述は終わりです。
中村健之介氏は自身がペチェルスキー修道院を訪問した際に強烈な印象を受けたので、ニコライとロンズデールのやりとりに割と深い意味を見い出しておられるようですが、実際にニコライの日記を読んでみると、ニコライには特段の思い入れはないようですね。
そもそも「イギリスの旅行家でもある Londsdale 師」という書き方にはちょっと小馬鹿にしたような響きがあり、「正教は文明の最先端を行く国からきたわけではない」という一見卑下したような表現も、「正教の教理がカトリックやプロテスタントの教理よりも確固としている」という自慢の引き立て役です。
かつてロンズデールが「わたしがどんなに説明しても、どうやら、かれにはキエフの聖骸に対する敬虔の念が目覚めることはなかった」のは、正教会に比べて教理が浅い聖公会の人だからしょーがないね、みたいな軽いノリで書いていますね。
ニコライの宗教的信念は確固たるものであって、ロシア正教が「土俗的なキリスト教」だなどという劣等感はニコライには微塵もありません。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その6)

2020-01-06 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 6日(月)10時57分9秒

続きです。(p221以下)

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 ニコライは日記に、かれがロシア帰国中の一八八〇年にキーエフで会ったイギリス国教会神父ロンズデールのことを思い出してこう書いている。
 「かれはキーエフへ来て、ありとあらゆるものを見ようとした。キーエフの修道院〔有名なペチェルスキー修道院。地下墓地が広がり修道士たちのミイラがいくつもある〕でわたしは……へたな英語でこのブリトン人〔イギリス人〕とかれと一緒にいた若者を部屋に迎えてお茶をご馳走し、それから鐘楼だとか洞窟だとかいろんなところを案内した。一所懸命努力したのだが、キーエフの聖骸に対する崇敬の念をこのブリトン人のうちに呼び覚ますことはどうやらできなかった」(一八八九年九月一二日)
 「ブリトン人」ロンズデールは、ペチェルスキー修道院のくねくねと続く暗く細い地下の道を案内され、ところどころの道の横に掘られた洞窟のろうそくの明かりの下に修道士の服をつけたミイラが柩に入って横たわっているのを見せられて、ぎょっとしたのではないだろうか。私もそうろくを手にその細い地下の道を歩いたことがあるが、暗闇の洞窟に置かれたそのミイラの傍らには青白い顔の若い修道士が黙って立って祈りを捧げていたりする。ロンズデールの目にはそれは「土俗的なキリスト教」に見えたことだろう。しかし、案内するニコライは、それらの聖骸に深い崇敬の念を抱いていた。
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1889年9月12日のニコライの日記を見たところ、ニコライは東京と横浜でロンズデールと再会しているのですね。
この時期、東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建設が進んでいて、当日の日記には強い風の影響で工事に支障が出たことも記されています。
ニコライの日記が具体的にどのようなものかの紹介を兼ねて、この日の記述を全て引用してみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、教文館、2007、p275以下)
なお、第1巻の「凡例」によれば、

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①ロシア滞在時の日記は、ロシア暦(ユリウス暦)の日付のみが書かれている。
【例】「一八八〇年四月四日、大斎第五週の金曜、モスクワ」
②ニコライは日本での日記の日付は、ほとんどの場合、まずロシア暦(ユリウス暦)の日付を書き、斜線/を引き、その後に新暦(グレゴリウス暦)の日付を書いている。教文館版では、新暦の日付は( )で示した。
 十九世紀では、ロシア暦の日付に一二日を加えると新暦(グレゴリウス暦)の日付となる。ニ十世紀では一三日を加える。
【例】「一八八一年五月七日(一九日)、木曜。熊谷」
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とのことで、1889年9月12日は新暦の日付です。

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一八八九年八月三一日(九月一二日)、木曜。
 昨晩からほとんど今朝まで大風がやむことがなかった。鐘楼の足場の解体を始めていたのだが、この作業を終えておくことができなかったので、十分固定されていなかった何本かの棒が強い風に揺り動かされて、十字架の下の急勾配の尖塔の一つに亀裂が入りかけている。表面が三インチ〔約九センチ〕ほどへこみ、銅板の屋根が二ヵ所損傷を受けている。しかし、ありがたいことに、被害はこの程度ですんだ。風はことのほか強烈だったので、足場はどれも少し歪み、丸屋根のスレートが六ヶ所めくれ上がり(施工で手抜きされていたのだ)、庭の桜の木と出版部の柳の木が折れ、塀はほとんどぜんぶ倒れた。ここを風が吹き抜けたのだ。こうした惨状は宣教団だけでなく、市街地やその周辺でも、少なからぬ家屋が倒壊した。近郊では壊れた家の下敷きになって何人かの死者が出た。
 ついさっき、イギリスの監督〔ビショップ〕Bickersteth〔エドワード・ビカーステス、一八五〇~九七、イギリス聖公会〕のところから帰ってきた。(この姓は醜悪とは言わないまでも、普通にはあまり綺麗ではない〔bickerには「口げんかをする」という意味がある〕。)イギリスの旅行家でもある Londsdale〔ロンズデール〕師がかれのところに滞在しているというので、呼ばれていたのだ。この人とは一八八〇年にキエフで会ったことがある。かれはこの町の見物にやってきていたのだが、そこの大修道院でロンズデールの修道院見学の案内人をたまたま務めていたさるご婦人への同情の念を抑えるまでもないと思ったので、わたしは彼女をその下手なフランス語から解放すると、自らもっと下手な英語で、このイギリス人とかれに付き添っていたなんとかいう若者とをお茶に招待し、さらにかれを鐘楼や洞窟やその他いろんなところに案内してあげたのである。わたしがどんなに説明しても、どうやら、かれにはキエフの聖骸に対する敬虔の念が目覚めることはなかったようだが、いまもそれは変わらない。
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途中ですが、長くなったので、いったんここで切ります。

The Kyiv-Pechersk Lavra | Kyiv's Architecture: History And Myth
https://www.youtube.com/watch?v=nVX7lWV5RHM
洞窟と聖骸
https://www.youtube.com/watch?v=3uMAfet3TJQ
「英雄のミイラ」(「人もすなるブログといふものを我もしてみむとてするなり」ブログ内)
http://angiebxl.blog.fc2.com/blog-entry-222.html
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その5)

2020-01-05 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 5日(日)20時19分57秒

ここ暫く中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979)と長縄光男『ニコライ堂遺聞』(成文社、2007)に寄り道していましたが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)に戻ります。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70ac999f60b206734fcc7a3b47a5eaac
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2a13d4b4a3b557f2153b9bbf2eb4f2a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c27ba7438b1389a7e33670a17880ee44
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc5807fe1baf296d2bc52b1fec9d3568

改めて同書の構成を確認すると、

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第一章 来日まで
 一 ニコライと先達
 二 ロシア正教会とニコライの日本宣教志願
第二章 函館時代、信徒の誕生
 一 函館のニコライ
 二 日本伝道会社の設立とニコライの再来日
第三章 布教の実態
 一 宣教活動
 二 正教の聖歌
 三 地方巡回で出会った日本
 四 在日外国人との交友
第四章 日露戦争時の日記─愛国心とロシア人捕虜
 一 引き裂かれる魂
 二 講話から激動の時代へ
第五章 ニコライと明治日本
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となっていて、第三章第二節「正教の聖歌」、第三節「地方巡回で出会った日本」など、実に興味深い記述が多いのですが、当初予定より「国家神道」の検討がかなり遅れているので、涙をのんで割愛し、第五章だけをもう少し見ておきます。
ここでは中村健之介氏と長縄光男氏との「近代化されていない宗教」であるロシア正教をめぐる評価の違いがかなり鮮明に出てきます。
また、渡辺京二氏のニコライに対する誤解についても少し述べるつもりです。
ということで、まず第五章の冒頭を少し引用します。(p220以下)

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近代化されていない宗教

 明治期に日本に入ってきたいくつかの流れのキリスト教は宗教の面から日本を西洋化したのであるが、ニコライの伝えたロシア正教というキリスト教もそうだったのだろうか。
 前にも言ったように東方正教会に属するロシア正教会は、ルネサンスも宗教改革も経験していない。近代化、世俗化(セキュラライゼーション)という濾過器を経ていない。これは宗教改革と対抗宗教改革を経たプロテスタント、カトリックとはやや違うキリスト教である。だから、前に森安達也の研究を紹介して言ったように、欧米の人々の目にはロシア正教は「土俗的なキリスト教」「異教的古代の水準に止まるキリスト教」と映ったのである。
 一八八七年にロシアへ旅したマサリク(後の初代チェコスロヴァキア大統領)は、そのときかれを案内した若い修道僧のことが「忘れることができなく」て、こう書いている。
 「ロシアとヨーロッパの精神的対立が百パーセントに体験されたのは、ロシアの修道院〔明記されていないが、おそらくキーエフのペチェルスキー修道院〕であった。私はこのことを、私が初めてロシアを訪れたときになまなましく体験した。……彼〔二十五歳の修道僧〕は私を地下墓地へ同伴し、そこで見せられたもの─すなわち彼の真心からの崇敬の対象であった事物がどういうものか私に説明してくれることになった。それらのものは異端者たる非ロシア人たるヨーロッパ人には、陳列品としてしかわからなかったであろう! 彼は一つひとつの聖遺物と聖像の前で、とりわけ比較的巨大な聖像の前でおじぎをした。彼はほとんど十字の切りどおしで、跪いて、聖なる物体に額をすらし、口づけをしていた。私はことの次第をよく注意し、修道僧の畏怖のたかまるのを知った」(マサリック『ロシア思想史 Ⅰ』佐々木俊次・行田良雄訳)
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いったん、ここで切ります。

トマーシュ・マサリク(1850-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%AF
キエフ・ペチェールシク大修道院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AF%E5%A4%A7%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2
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長縄光男『ニコライ堂遺聞』(その3)

2020-01-04 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 4日(土)10時32分35秒

前回引用した部分に続けて、長縄氏は次のように述べます。(p14)

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 このことは日本の正教会が東北地方という、近代化から取り残された地域に主たる基盤を見いだしていたということと無関係ではない。
 正教会と東北地方の結び付きは、教会そのものの歴史の始まりにさかのぼる。ニコライがはじめて日本の土を踏んだのは、一八六一年六月、函館でのことであったが、この地はやがて新政府軍と幕府軍の最後の決戦場となるところでもあった。そして敗北することになるこの幕府軍に主力として加わった仙台と南部の藩士の中から、ニコライの初期の弟子たちの多くが生まれたのである。正教会がその伝道活動の根拠を東北地方、特に宮城県と岩手県に見いだしてきたのは、そのような経緯による。現に今日、正教会が擁する教会五十余りのうち、十八の教会がこの地に集中しているということからも、正教会と東北地方の結び付きの強さをうかがうことができるだろう。
 しかるに、東北地方というのは近代化から大きく取り残された地域であり、近代に入っても幾度となく飢饉に苦しまねばならないほどに貧しい農業地帯の一つであった。もっとも、白河のような繊維工業の栄えた町に正教会が信徒を得ていたという事実はあるにしても、この町の産業も明治の半ばごろには衰退して行ったのである。概して、東北地方には大規模な近代産業が興る基盤がなかったということができる。ということはつまり、正教会は将来の「ブルジョワジー」をその信徒とする可能性を持たなかったということを意味している。
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うーむ。
長縄氏は十九世紀のロシア思想、特にゲルツェンなどが専門の人なので日本近代史に関する知識が乏しいのは仕方ありませんが、それにしても、このあたりの記述は東北地方への偏見がひどすぎるのではないですかね。
「近代に入っても幾度となく飢饉に苦しまねばならないほどに貧しい農業地帯」とありますが、江戸時代はともかく、「飢饉」といえるような事態はせいぜい昭和初期に限定されますね。
白河の「産業も明治の半ばごろには衰退して行った」も統計的な数字の裏づけがあるのか。

長縄光男(1941生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%B8%84%E5%85%89%E7%94%B7

疑問は多々ありますが、もう少し長縄氏の主張を見てみます。(p15)

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 もっとも、教勢がはかばかしくなかったのは決して正教会だけではなく、新教各派とても正教会に比較してそれほど目ざましく優勢であったわけではない。その意味でウェーバー・テーゼを日本にそのままあてはめるのは正しくないという指摘にも、十分な根拠があるといわねばならないだろう。しかし、各会派が獲得した信徒の数とは別に、社会に対して思想的に影響力を持つ信仰者を輩出したという点では、正教会がプロテスタントやカトリックの教会に大きく遅れをとっていることは、明白な事実でもある。この事実は正教会がその教義の故に、明治という時代が求めていた課題に十分適合していなかったという主張の根拠となりうるだろう。
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うーむ。
長縄氏が未だに素朴な「ウェーバー・テーゼ」の信奉者であることはちょっと驚きですが、それはさて措き、「社会に対して思想的に影響力を持つ信仰者を輩出したという点では、正教会がプロテスタントやカトリックの教会に大きく遅れをとっている」もどうなのか、という感じがします。
私が思うに、長縄氏は日本のキリスト教の極めて狭い世界の中での正教会の位置付けに拘りすぎているような感じがします。
長縄氏は、

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今日カトリックの信徒は四〇万と言われ、プロテスタントは六〇万といわれている中で、正教会は何と数千、多く見積もっても一万人の信徒を擁するに過ぎない弱小教団になってしまった。これは一体どうしてなのか、この原因を考えるのがこの序論の趣旨である。
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と言われますが(p8)、自由な布教が可能になってから百五十年を経た現在になっても、日本のキリスト教全体がカトリックとプロテスタント、そしてロシア正教を合計しても僅か百万程度、総人口の僅か1%という「弱小教団」であるのは「一体どうしてなのか、この原因を考えるのが」まず先ですね。
歴史の極めて浅い新宗教系の団体にも、キリスト教人口の総合計を遥かに超える巨大宗教団体がゴロゴロ存在する中で、何故にキリスト教は全体として未だに「弱小教団」に止まっているのか。
仮に戦前は多少の束縛はあったとしても、完全な宗教活動の自由が保障された新憲法下において、キリスト教人口の比率が全く向上せず、僅か1%という、統計上の誤差よりいくらかマシ、程度の数字にずっと止まっているのは一体何故なのか。
カトリックやプロテスタントの一貫した低迷に比べれば、日露戦争時の「露探」疑惑、資金源だったロシア帝国の消滅、関東大震災によるニコライ堂の倒壊、治安維持法の下で正教会がずっとソ連との結びつきを疑われていたこと、更には戦後も冷戦の狭間にずっと置かれていたことなど、様々な悪条件の下でロシア正教が維持されたことだけでも本当のすごいことです。
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長縄光男『ニコライ堂遺聞』(その2)

2020-01-02 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 2日(木)20時20分56秒

続きです。(p8以下)
マトリョーシカは小田原発祥なりしか、というテーマにも心惹かれますが、これは後日の課題として、正教徒の信者数の問題に移ります。

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信者の数に関していえば、明治の中頃、キリスト教徒全体、約一三万人のうち正教会は約二〇数%にあたる約三万人の信徒を擁していた。この頃カトリック教会は約六万人、プロテスタント各派は合わせて約四万人であったことを思うと、正教会が擁していた信徒三万という数には並々ならぬ意味があったといわねばならないだろう。
 しかるに、今日カトリックの信徒は四〇万と言われ、プロテスタントは六〇万といわれている中で、正教会は何と数千、多く見積もっても一万人の信徒を擁するに過ぎない弱小教団になってしまった。これは一体どうしてなのか、この原因を考えるのがこの序論の趣旨である。
 一般に次のように考えられている。つまり、ニコライの生前には正教会は隆盛を誇っていたが、一九一七年のロシア革命によって財政的な基盤を失い、一九二三年の関東大震災によって布教活動の根拠を失い、さらに第二次世界大戦によって追い打ちをかけられ、また、戦後は米ソの冷戦の狭間にあってソ連の正教会とアメリカの正教会の板挟みにあって教勢は振るわなかったのだ、という理解である。私はこうした理解の仕方を否定するものではない。しかし、私にはこうした理解の仕方には不十分な側面があるようにも思われる。つまり、私は教会の衰退の原因はむしろ明治時代そのもの、近代日本そのものの中にこそあったのではないかと考えているのである。言い換えれば、日本の正教会は、たとえ革命や震災がなくとも、早晩衰退を余儀なくされていたのではないかと考えているのである(もちろん、今日のような規模での衰退ではないにしても)。
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このように「教会の衰退の原因はむしろ明治時代そのもの、近代日本そのものの中にこそあったのではないかと考え」る長縄氏は三つの原因を挙げます。
ただ、「第一に考えられる原因は明治期の日本が、特に中期以降は、ナショナリズムを主たる潮流とする時代であったということ」(p9)については、長縄氏が自ら認めるように「明治期のキリスト教が共通に持っていたマイナス要因」なので、理由付けとしては弱いですね。
ついで長縄氏の挙げる第二の原因は「ロシアという刻印」(p9)です。
即ち、ロシアは「日本の国民一般に対して西欧諸国とは一種特別の印象を与えて」おり、「平均的な日本人がロシアに対して抱いていた感情」として脅威感・憎悪感・侮蔑感があったとされ、それぞれについて縷々説明されます。
まあ、これは確かにロシア正教の布教を妨げる要因ですね。
そして三番目として、長縄氏は次のように述べます。(p13以下)

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 最後に私は正教会が担っていたマイナス要因として、一つの仮説を掲げたいと思う。それは正教そのものがもつ保守的な性格、反宗教改革(アンチ・リフォメーション)的な性格である。
 周知のように、プロテスタントは腐敗したカトリックの僧侶たちによって聖書解釈の正統性が独占されていることに異を唱え、自分たちの良心に照らして聖書を理解しようとしたが、その結果、彼らは自分たちの信仰の正しさを自分たち一人ひとりの良心によって証明するという、厳しい倫理的な要請を引き受けることになった。そして、ウェーバーが教えているように、こうした厳しい倫理的な要請こそが西欧人に自我の確立を促し、その主知主義の精神、合理主義の精神を鍛え、ひいては近代諸科学の振興をもたらし、そしてついには資本主義の成立を結果することになったのである。これに対して正教は、みずから「オーソドックス(正統派)」と名乗ることからも知られるように、一貫して教父時代以来の聖書理解を堅持してきた。それというのも正教には個人の英知よりも歴史の試練に堪えた伝来の衆知を尊ぶという、人間個人の知性の限界にたいする独自の考察が根底にあるからである。そのような正教からすれば、聖書理解の正当性を信仰者個人の良心に委ねるというプロテスタンチズムの行き方など、到底容認しうるところではなかったのである。
 近代合理主義がいたる所でその弊害を露呈しつつある今日、正教的な人間理解には学ぶべきものが多くあるとは思うが、しかし、近代の幕開けの時代において正教が近代化を促進するエートスとなりえなかったことは明らかであろう。しかるに明治時代の日本が目指していたのは正に西欧的な意味での「近代化」であった。つまり正教会は近代日本のめざす方向と、根本的にそぐわなかったということができるだろう。
-------

うーむ。
ここまで教科書的なウェーバー理解は、最近では些か珍しいような感じもしないではありませんが、それはひとまず措くとしても、この第三の要因についての長縄氏の「仮説」は、私にはずいぶん無理が多いように感じられます。
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