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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その3)

2020-01-29 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月29日(水)09時57分34秒

従来の通説が作者論と成立年代論を混同し、「<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし」ていたという宮内三二郎氏の指摘を私は正しいと考えますし、また、かかる混同を排するため、「まず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする」という宮内氏の方法論も正しいと考えますが、小川氏の宮内説に対する言及の仕方はかなり屈折していますね。
『増鏡』が小西甚一・伊藤敬氏の言うように「現在時制で記された物語であるとすれば」、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのものが無効」であり、宮内氏が列挙する「徴証」の「殆どは証拠能力を失う」としながら、しかし、「それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められる」ので、「証拠能力に欠ける記述を除外していった結果」、なお残る「最も有力な徴証」二ヵ所、即ち「ついのまうけの君」と「いまの尊氏」については「再検討してみたい」のだそうです。
だったら、結局のところ、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのもの」は、限界はあるにしても決して「無効」ではなく、むしろそれなりに「有効」として肯定的に扱うべきではないかと思いますが、小川氏は自分が宮内説の影響を受けたことを否定、ないし目立たなくしたいようですね。
ま、それはともかく、第三節に進んで、「ついのまうけの君」に関する小川氏の説明を見たいと思います。(p2以下)

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     三 「ついのまうけの君」

 「くめのさら山」の末尾に、次のようにある。
  三条前大納言公秀女、三条とてさふらはるゝ御腹にそ、宮
  々あまたいてものし給ぬる、ついのまうけの君にてこそ
  おはしますめれ。
 即ち、作者は光厳院と、正親町三条秀子(のちの陽禄門院)との間に多くの子女が生まれ、そのうち一人が儲君となったことを知っている。従って、第一皇子の興仁親王(一三三四-九八、のちの崇光院)が暦応元年(一三三八)八月、春宮に立てられた時点が、作品成立の上限となる。この考えは和田英松によって提唱されて以来、承認されている。
 「まうけの君」(儲君)皇位継承者の意、ただし『源氏物語』桐壷巻の「まうけのきみ」にもよるのであろう。のちの朱雀院のことで、桐壷帝の皇太子であり、皇位もその子孫に継承されていく。『増鏡』で、それに「ついの」が冠せられたのは、元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実を踏まえていて(後述)、最終的な、という意味が込められているのであろう。従って若干精度は落ちるが、興仁親王が受禅した貞和四年(一三四八)十月より以前の筆致である可能性も認められるであろう。
 但し、興仁も厳密にいうと「ついのまうけの君」ではなかった。治天の君である光厳上皇は、興仁の立坊の時点で、花園法皇の皇子直仁親王(一三三五-九八、興仁より一歳若い)を持明院統の正嫡とすることを定めていたからである。
 康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文には、以下のように記されている。
    定置 継体事
  興仁親王備儲弐之位先畢、必可受次第践祚之運、但不可有
  継嗣之儀<若生男子者、須必入釈家、善学修仏教、護持王法、以之謝朕之遺恩矣>、以直仁親王、所備将来継
  体也、子々孫々稟承、敢不可違失、件親王人皆謂為法皇々
  子、不然、元是朕之胤子矣、去建武二年五月未決胎内<宣光
  門院>之時、有春日大明神之告已降、偏依彼霊倦(ママ)所出生也、
  子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣、
直仁は、光厳上皇が花園院の妃宣光門院との間に儲けた子であるという。表向きは花園の子となっているが、光厳はこれを鍾愛した。興仁立坊の時には「天の時を得ざるに依り」直仁のことは秘したが、既にこの時点で皇位に就けることを決め、興仁の子孫は行為を践んではならぬと定めているのである。同じ日、上皇は興仁親王に持明院統累代の所領因幡国衙領と法金剛院領などを譲ったが、それも一期分としてであり、興仁の後は直仁に譲ることを厳命した。しかも、光厳は暦応元年の時点で直仁を立坊させるつもりであったが、勧修寺経顕の諫言に従って興仁の立坊を沙汰したとも記しているのである。

       持明院統系図【略】

上皇の悲願は、崇光即位とともに直仁を立太子させたことで達成されるかに見えた。ところが正平一統のために廃位された直仁は、そのまま上皇とともに南朝に拉致され、賀名生に幽閉を余儀なくされた。その間、足利義詮は、皇位を践むことを予測していなかった光厳院第三皇子を急遽践祚(後光厳天皇)させた。直仁は延文二年(一三五七)二月、漸く光厳とともに帰京したが、もはやその出番はなく、遂に皇位に就くことなく終わった。しかし、光厳は直仁を継承者と思い定めていて、後光厳とは終生不和であった。なお、直仁出生の事情は、実際には何人かの廷臣が承知していたようである。
 「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい。
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「光厳上皇が長講堂に奉納した置文」は正確に再現できておらず、持明院統系図も省略したので、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の方を参照してください。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001

第三節はこれで全てです。
検討は次の投稿で行います。
コメント
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