投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月10日(金)11時00分27秒
ちょっと脱線気味の話になります。
昨日の投稿で引用した「うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている」(p226)という部分、気になるので確認したいのですが、出典が明記されていません。
長縄光男氏の『ニコライ堂の人々』(現代企画室、1989)に付された年表を見ると、三井道郎が輔祭に叙されたのが1894年1月、司祭に叙されたのが翌2月なので(p245)、『宣教師ニコライの全日記 第3巻』(1891年9月~1894年)を見てみましたが、残存状況が悪いのか、1894年(明治27)は極端に日記の分量が少なくて、一年を通して僅か9日分、6ページ程しかありません。
そして、その中には上記やり取りは出ていないので、三井が残した記録にあるのかなあ、と思って探しているところです。
ところで、『ニコライ堂の人々』の「はじめに」には、
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物語りには主人公が要る。私はその役割を、さしあたり西面三井道郎〔シメオン・みい・みちろう、あるいは、どうろう〕という一人の神父に託した。
「長司祭・シメオン・三井」といえば、明治・大正・昭和の三代を通じてニコライ大主教とセルギイ府主教という二人のロシア人宣教師を補佐した正教会の重鎮として、教内では並ぶもののない盛名を馳せた神父なのだが、遺憾ながらその盛名も教外にまで及ぶには至らず、たとえば『昭和物故人名録』(日外アソーシエイツ、一九八三年)の中では生年は不詳とされ、姓も「みつい」と読まれている有り様である。【後略】
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とあります。(p18)
1858年(安政5)に盛岡で生まれた道郎の父・三井与次郎兵衛は南部藩で「在所の御代官」と勤めていたとのことなので(p21)、相当の家格であり、「三井(みい)」という姓にもそれなりの由来があるはずです。
しかし、奥羽越列藩同盟に入って、討幕派に寝返った秋田藩を攻撃し、敗北した南部藩の運命は苛酷で、道郎もなかなか教育の機会に恵まれず、正教会に近づいたのも安い費用で新知識を得ようとした、という理由がけっこう大きいようです。
その経緯は、南部藩の家老の家柄に生まれながら、資力不足から「あるカトリックの司祭の学僕として済み込み、将来への道を切り開いた」(p26)、平民宰相・原敬と良く似ています。
原敬(1856~1921)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
同郷で年齢も原敬が道郎より二歳上と近い二人ですが、宗教界という特殊な世界に進んだ道郎と原との交流は乏しかったようですね。
ただ、長縄氏によれば、1919年(大正8)の『原敬日記』に道郎が登場するそうです。
この頃、ロシア革命に危機感を抱いていた日本の正教会は、日本政府のシベリア出兵に実質的に協力する形で、慰問物資とともに神父四名をロシアに派遣します。
そして道郎はハルビンからチタ、イルクーツク方面に向います。(p220以下)
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道郎たちがシベリアにあった頃、国内では「米騒動」を契機とした政変があり、原敬内閣が誕生していた。原敬といえば南部藩の先輩でもあることから、年が明けて大正八年一月十五日、道郎は報告をかねて原を訪問した。以下『原敬日記』からの抜き書きである。宗教が政治の思うままに繰られる有り様が見てとれるのが面白い。まず十五日の項から。
ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)前内閣外相の内命を受けて西比利亜に出張して帰りた
る者来訪。彼地方に於ける実況を内話し且言語不通風俗異なりたるが為に兵士と地方人民との間
に衝突多き実例を内話せり。田中陸相にも談話すべしと注意し、田中にも其旨話し置けり。……
山本農相の来訪を求めて米買入れの状況を聞きたるに、政府の手にて買入れの外なき事を提議
せしも、余は先般来内定の通商人をして買入しむるを可とす。故に三井に相談の上必要なれば政
府より命令して買入れしめ損失あれば政府之を補填するの条件にて相談を進むべし。政府直接買
入れは最後の事なりと申し含めたり。
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いったん、ここで切ります。
ちょっと脱線気味の話になります。
昨日の投稿で引用した「うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている」(p226)という部分、気になるので確認したいのですが、出典が明記されていません。
長縄光男氏の『ニコライ堂の人々』(現代企画室、1989)に付された年表を見ると、三井道郎が輔祭に叙されたのが1894年1月、司祭に叙されたのが翌2月なので(p245)、『宣教師ニコライの全日記 第3巻』(1891年9月~1894年)を見てみましたが、残存状況が悪いのか、1894年(明治27)は極端に日記の分量が少なくて、一年を通して僅か9日分、6ページ程しかありません。
そして、その中には上記やり取りは出ていないので、三井が残した記録にあるのかなあ、と思って探しているところです。
ところで、『ニコライ堂の人々』の「はじめに」には、
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物語りには主人公が要る。私はその役割を、さしあたり西面三井道郎〔シメオン・みい・みちろう、あるいは、どうろう〕という一人の神父に託した。
「長司祭・シメオン・三井」といえば、明治・大正・昭和の三代を通じてニコライ大主教とセルギイ府主教という二人のロシア人宣教師を補佐した正教会の重鎮として、教内では並ぶもののない盛名を馳せた神父なのだが、遺憾ながらその盛名も教外にまで及ぶには至らず、たとえば『昭和物故人名録』(日外アソーシエイツ、一九八三年)の中では生年は不詳とされ、姓も「みつい」と読まれている有り様である。【後略】
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とあります。(p18)
1858年(安政5)に盛岡で生まれた道郎の父・三井与次郎兵衛は南部藩で「在所の御代官」と勤めていたとのことなので(p21)、相当の家格であり、「三井(みい)」という姓にもそれなりの由来があるはずです。
しかし、奥羽越列藩同盟に入って、討幕派に寝返った秋田藩を攻撃し、敗北した南部藩の運命は苛酷で、道郎もなかなか教育の機会に恵まれず、正教会に近づいたのも安い費用で新知識を得ようとした、という理由がけっこう大きいようです。
その経緯は、南部藩の家老の家柄に生まれながら、資力不足から「あるカトリックの司祭の学僕として済み込み、将来への道を切り開いた」(p26)、平民宰相・原敬と良く似ています。
原敬(1856~1921)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
同郷で年齢も原敬が道郎より二歳上と近い二人ですが、宗教界という特殊な世界に進んだ道郎と原との交流は乏しかったようですね。
ただ、長縄氏によれば、1919年(大正8)の『原敬日記』に道郎が登場するそうです。
この頃、ロシア革命に危機感を抱いていた日本の正教会は、日本政府のシベリア出兵に実質的に協力する形で、慰問物資とともに神父四名をロシアに派遣します。
そして道郎はハルビンからチタ、イルクーツク方面に向います。(p220以下)
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道郎たちがシベリアにあった頃、国内では「米騒動」を契機とした政変があり、原敬内閣が誕生していた。原敬といえば南部藩の先輩でもあることから、年が明けて大正八年一月十五日、道郎は報告をかねて原を訪問した。以下『原敬日記』からの抜き書きである。宗教が政治の思うままに繰られる有り様が見てとれるのが面白い。まず十五日の項から。
ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)前内閣外相の内命を受けて西比利亜に出張して帰りた
る者来訪。彼地方に於ける実況を内話し且言語不通風俗異なりたるが為に兵士と地方人民との間
に衝突多き実例を内話せり。田中陸相にも談話すべしと注意し、田中にも其旨話し置けり。……
山本農相の来訪を求めて米買入れの状況を聞きたるに、政府の手にて買入れの外なき事を提議
せしも、余は先般来内定の通商人をして買入しむるを可とす。故に三井に相談の上必要なれば政
府より命令して買入れしめ損失あれば政府之を補填するの条件にて相談を進むべし。政府直接買
入れは最後の事なりと申し含めたり。
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いったん、ここで切ります。