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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その19)

2020-01-25 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月25日(土)20時04分14秒

副島種臣とニコライの宗教観はかけ離れているので、そもそも二人が何故に親しくしていたのかが不思議に感じられるほどですが、その事情は1905年1月、副島が亡くなったときのニコライの日記に出ています。
遥か昔、後に東京復活大聖堂が建てられる土地を正教会が利用できるよう便宜を図ってくれたのが、当時外務大臣だった副島だったそうです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p157以下)

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一九〇五年一月二〇日(二月二日)、木曜。

 会計報告につける領収書の翻訳。【中略】
 一月一八日(三一日)、副島種臣伯爵逝去。わが良き知人で、一八七二~七三年には外務大臣だった。当時、宣教団が現在の地をたいした苦労もなく取得できるよう助けてくれた。わたしは副島にキリストの教えについていろいろ話した。かれも進んで聞き、喜んでわたしからの贈り物としてキリスト教の書物を受け取っていた。あるときなど救世主キリストのイコンをほしいと言うほどであった。その後わたしはそのイコンがかれの家の目立つところにかけてあるのを見たことがある。しかしながら、儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった。キリストの教えは、人間にたいし、まず第一に、謙遜と神の前に自己の罪を認める心を求めるものだ。だから、副島は霊的には眼が開かれないまま亡くなってしまった。一八七三年、副島は紫色の上質の絹の布地をわたしに贈ってくれた。清国に対する功績(清国人を乗せたチリの船の難破の件で)に対し、清朝政府から贈り物として受け取った布地の一部であった。いただく際、わたしはかれにこう言った。「この布地で、あなたに洗礼を施すとき、祭服をつくるつもりです」と。一昨年、副島が訪ねてきたとき、そのことを思い起こさせて、聞いてみた。「布地はそのときに備えてずっとしまってありますが、どうしたものですか」と。すると、伯爵は静かな微笑を浮かべて、「捨ててください」と答えた。しかし、私は捨てはしない、柩覆い布〔ポクロフ〕、そして宝座および奉献台に置いておく祭服を作るつもりだ。もしかして、無意識にしたこの贈り物によってかれの魂が安寧を得、キリストの光をいささかでも受けることができるかもしれない。かれはもちろん善良な気質の持ち主だった。しかし、この善なる金も、天の御父を知らない子の場合には、御父の前にもたらされることはなく、戸外に積まれていたのだ。天の御父はかれを非難されることもないし、誉めもなさらないだろう。なぜなら、この金が得られたのは天の御父を思う思いからでも、御父を敬う思いからでもなかったのだから。
 わたしは、副島伯爵の逝去にたいし、直接ご遺族に哀悼の意を表すこと、あるいは葬儀に出席することはできない。警察官を尻尾のように従えて行かねばならないのは不愉快だから。きょう、ご遺族に弔意を表すべく、わたしの名刺を持たせて宣教団書記のダヴィド藤沢〔次利〕を遣わした。
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日露戦争が継続中で、正教会に対する脅迫めいた事件も頻繁に起きていた時期ですから、ニコライは不測の事態を避け、警備側に負担をかけないために副島の葬儀には出席しなかった訳ですね。
ちなみに1904年3月15日の記事によれば、東京復活大聖堂は「昼も夜も三人あるいは四人の警官があらゆる方面から教団を護っていてくれるのだ。それに加えて憲兵が二人、警護のために教団内に住んでいる」という状態だったそうです。(第8巻、p36)
なお、当掲示板でも筆綾丸さんの投稿をきっかけに副島種臣について少し言及したことがありますが、それは副島の書家としての側面についてでした。
副島の書は極めて独創的で、書家としては殆ど天才と言ってよい水準にある思いますが、「儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった」にもかかわらず、副島がニコライに「救世主キリストのイコンをほしいと」言い、それを「かれの家の目立つところにかけて」いたのは、あるいは芸術的な観点からの行為なのかもしれません。

副島の血(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5327
副島種臣の後半生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba3c6090fd154b02bac6d8674f62e56
「副島種臣の借金問題について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84c59163c3cf887eaff31e829c897388

なお、去年、日露戦争中の松山ロシア兵捕虜収容所を舞台にした『ソローキンの見た桜』という映画が公開されたそうですが、私は全然知りませんでした。

https://sorokin-movie.com/

ソローキンは『宣教師ニコライの全日記』にもほんの少しだけ登場しますが、あまり好意的な描かれ方ではないですね。
1904年7月31日の記事です。(第8巻、p103)

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【前略】松山にいる捕虜の一人、ミハイル・ドミートリチ・ソローキンという少尉から手紙がきた。英語を学びたいので本を送ってほしいという。すぐに、ロベルトソンの本を二冊、レイフの辞書、そして英語で書かれた世界史を送った。手紙に親切に助言も書いて、先生としてミス・パーミリーを教えてやった。しかしこの少尉の短い手紙のぞんざいな態度やものの考え方から、これが宗教心のない若者だということがわかり、悲しい気持ちになる。
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ソローキンについてはこれだけですが、その後、ニコライの悲痛な心情が縷々語られます。

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 日本人はわれわれを打ち負かしている。あらゆる国の人びとがわれわれを嫌っている。主なる神はわれわれに怒りを注いでおられるようだ。それもむべなるかなだ。われわれには、愛され褒められる理由はない。
 わが国の貴族は何世紀にもわたって農奴制に甘やかされ、骨の髄まで堕落してしまった。一般民衆はその農奴制に何世紀にもわたって圧しひしがれ、手のつけようのない無知蒙昧で粗野な者になってしまった。軍人階級と官吏は、賄賂と公金横領で暮らしてきた。いまやかれらは上から下まで一人残らず良心のかけらもなく公金着服の風習に染まってしまい、機会さえあればところ嫌わず盗みに精を出している。上層階級はさまざまな狼の集まりであって、ある者はフランスを、ある者はイギリスを、ある者はドイツを、そしてその他もろもろの外国を崇拝してそのまねをしている。聖職者階級は貧困にさいなまれ、教理問答集だけはやっと手放さないでいるという有り様だ。そういう聖職者がキリスト教の理想を広め、それによって自分や他人を啓蒙していくことなど、できるわけがない。
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まだまだ続きますが、この辺で止めておきます。
コメント
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