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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その3)

2020-01-14 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月14日(火)22時25分21秒

ニコライの富岡訪問記、もう少し引用します。
「さまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです」と語る杉田へのニコライの対応です。 (p238以下)

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 「おまえが解明したいと言っている問題が宗教的な問題であるならば、それを解くために永生〔来世〕があるのではないか。この世では、問題解決のよろこびを先取りして予感できるために、必要最低限の知識しかわれわれには与えられていない。問題の完全な解明がなされるのは、真理の源である神のもとに行ってからだ。おまえがこの世でできるかぎり研究をしたいというのなら、それならおまえのための道を教えよう。もう一度伝教学校へ来なさい。伝教学校ではいま、おまえが学ばなかった基礎神学を教えている。その他にも、おまえの在学中にはなかったいろいろな科目がある。教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている。そういう教師たちの助けがあれば、おまえは、ここで暮らしてやっているよりもずっとよいかたちで自分の疑念を鎮めることができるし、問題の解決もうまくやれるようになる。
 杉田は考え込んでしまった。どうやら杉田はすっかり道を見失った人間ではないらしい。杉田の友人のもう一人の離反者、パウェル西岡が杉田を惑いに引きずり込んだに違いないのだが、西岡のような頑迷な高慢さは杉田にはない。
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舌鋒鋭く杉田を批判したニコライは、口調を変えて、杉田にもう一度学校に戻って基礎神学その他を学び直すように提案します。
杉田は1892年(明治25)に26歳ですから、満年齢ならば1866年(慶応2)生まれです。
「教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている」とありますが、1883年にロシアに留学して87年に帰国し、神学校教授となった三井道郎(1858~1940)を始め、確かに既に複数のロシア留学組が存在していますから、かつて杉田が学んだ頃よりは相当充実した教育体制になっていたのでしょうね。
さて、次に杉田の再婚問題についてです。

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 「もう一つ言っておきたいことがある。キリスト教徒の家族を惑わすな、神のいましめに逆らう罪へ引き込むな。亡くなった妻の妹と結婚するという考えは捨てなさい。滝上の家の者たちの親切は、亡き妻の身内の親切だと思いなさい。その親切に対して、滝上の家の者たちを罪に引き込むという悪をもって報いてはならない」
 これに対しても杉田はなにも言わなかった。わたしはさらに長いことかれを説諭した。その後、杉田は物思いにふけっている様子で立って行った。「あしたの朝、お返事します」とかれは言った。わたしは、そんなに急いで返答しなくてもよい、ただし、よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさいと言った。
 それからイオアン滝上を呼び、妹を杉田と結婚させないように、そんなことをして妹を傷つけないように、なぜなら神の命令にまったく反する結婚に神の祝福が与えられるはずがないし、その神の命令をよく知る人々からも祝福がえられるはずがないから、と説いた。すこしずつ母親と父親にはたらきかけて、この結婚について考えを変えてもらうようにせよ、とイオアンに助言した。
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急ぐ必要はないが「よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさい」というニコライの指導は、厳格でありながら暖かみも感じさせます。
また、イオアン滝上に対する「すこしずつ母親と父親にはたらきかけて」云々との指導も、宗教上の原則を単純に押し付けるのではなく、人間関係に配慮した実際的な工夫を加味しており、ニコライの洞察力の鋭さを感じさせます。
そして、更に杉田が引き起こした信徒間の混乱をいかに終息させるか、という難題が残っています。

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 晩の七時から、ペトル滝上の家で異教徒を相手の説教がはじまった。集まったのは、信徒をふくめ、約六〇人。杉田はかつてここの伝教者であった。それがいまはキリスト教の信仰の敵となっている。その杉田のゆえに、ここは動揺が生じかねない状況になっている。説教の目的は、いくらかは、その動揺を抑えることであった。だから、信徒のほとんど全員が聞きにきていたのはよいことだった。
 まず伝教者のイグナティ向山が話した。上手だった。ただ、例と説明があまりに長すぎる。森に隠れて家が見えない、ということがしばしばあった。わたしは初心者向けの、神と救世主についての説教をした。ただしここでの必要に合わせて話した。
 説教が終わると、兄弟たちは簡単な親睦会を開いた。歓迎の辞が述べられた。わたしは「講義」を行なうよう説得した。ここには成人男性が一五人、女性が一三人もいるのだから。兄弟たちはすぐ聞き入れ、次の集まりのために、三人の「講義者」と「幹事」を選んだ。いまは完全に暇な時期だから、集まりは月に二回、第二と第四の日曜に開かれることになった。女性信徒たちは、そのあとで向山の助けを得て、「講義会」を開くことにする。今回は女性の出席者は少なかった。
 伝教者の向山は田篠を三週間に一度訪ねることにする。毎月第三日曜にここで兄弟たちとともに祈祷を捧げ、訓話をする。確実に実行するよう、向山に旅費を出すことを約束した。それ以上は、いまはこの教会にしてやれることはない。またすっかりさびれた富岡の教会のためには、何もしてあげられない。この大きな町に伝教者が必要なのだろうが、それがいない。
 夜の一二時、きびしい寒さのなかを富岡へもどり、そこに泊まった。
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ということで、ニコライの配慮のキメ細やかさには驚くばかりです。
この田篠の例から伺えるように、いったん相当数の信徒を獲得したとしても、それを安定的に維持するのは大変なことですね。
田篠の組織がどの程度続いたのかは知りませんが、おそらく日露戦争・ロシア革命を経て信徒は激減し、現在は一人も存在していないのではないかと思います。
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