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金森通倫の「不穏な精神」

2017-05-07 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 7日(日)10時31分4秒

プロテスタントの立場から日本のキリスト教史を描いた一般読者向けの本を読むと、普及福音教会等の「自由基督教」に対する非難や嫌悪に満ちた表現に出会うことが多くて、私のように全く外部からプロテスタントの世界を眺めている人間にとっては聊か不思議な感じがします。
正直、百数十年前の事象にそんなに興奮することもないのになあ、みたいな感想を抱いてしまうのですが、ま、信仰の世界に生きている人たちには外部には分かりにくい様々な事情があるのでしょうね。
さて、あまり寄り道する訳にもいかないなと思いつつ、「自由基督教」のキーマンである金森通倫(1857-1945)だけは少し調べておきたいと思って文献を探したところ、杉井六郎氏(同志社大学名誉教授、1923-2011)の『明治期キリスト教の研究』(同朋舎出版、1984)で金森の信仰と思想の検討がなされていることに気づきました。
「第五章 明治のキリスト者群像─金森通倫を中心として─」の冒頭部分を少し引用すると、

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 『日本組合基督教史』(大正十三年九月、未定稿)によると、「金森通倫組合協会を去る」として、「金森の如く極端に馳せたものはなかつた。金森は何時も極端より極端に馳る人で、信仰と云へば飽く迄信仰を高調し、自由と云へば飽く迄自由を遂行した。キリストの神聖、奇蹟は勿論、終には神の存在をも霊魂の不滅をも否定せねば止まない如き勢であつた」としるされている。これは熊本洋学校以来の友人である小崎弘道の筆になり、さらに金森の同僚・後輩の眼を通して成稿されたものである。未定稿ながら、この本が、日本組合基督教会本部から出版された年代には、かれは、すでに信仰を復活し、ニュージーランド伝道に出かけ、再び三面六臂の大伝道活動をおこなっていた。かれにおとずれた、第二、第三の信仰の高潮が渦巻いていたときであった。

 かれは自らを≪私は太平の子ではない。擾乱の子である≫といっている。【中略】かれの師事した対象は竹崎茶堂からアメリカ人ジョーンズに移り、ついで新島に移っていった。その流動的な精神のあり方は、その対象に全精魂を投入して、そこに自己を焼き尽す体のはげしさをもちつつ、しかも、一所に固定、定着しない、躍動的な変り身の恬淡さが、「不穏な精神(レストレス・スピリット)」の大きな特徴といえる。
 こうした、ある意味で柔軟で自由な精神の持ち主に支えられ、担われる信仰・思想も、また、同じような枠組み、定型化、固定化をきらう性格を必然的にしたことも当然であろう。
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といった具合です(p285以下)。
杉井六郎氏の論文を読み進めて行くと、「一事背教し、棄教し、やがて、約二十年の後、再び信仰に復帰した」(p286)金森は、常識的なプロテスタント信者には全く理解不能な軌跡を描いているようでありながら、その宗教的・思想的変動には金森なりに極めて一貫した方向性が確かに存在していたことが伺われます。

金森通倫(「歴史が眠る多磨霊園」サイト内)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html
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