学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その12)

2020-01-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月18日(土)10時17分11秒

次いで、前々回の投稿で引用した「正教青年会の会長ワシリー山田が「数名の大学教授も招いて、経済学、民族誌学〔エトノグラフィヤ〕などの講義をしてもらおう」と提案した。その提案を聞いてニコライは怒る」という記述ですが、中村氏はこれを1902年3月13日の記事としています。
しかし、『宣教師ニコライの全日記 第7巻』を見ると、関連する記事は二ヵ所に分かれていて、ニコライが怒ったのは同年5月11日ですね。
まず、3月13日に、

-------
一九〇二年二月二八日(三月一三日)。大斎第一週の木曜。

【中略】東京の「青年会」会長兼記者のワシリイ山田〔蔵太郎〕が計画書を持ってやって来た。それによると、「公会のため本会に集まる伝教者たちのために夏のセミナーを開催する。かれらの学術的、宗教的知識を一新する必要があるからである。神学校の指導者たち、たとえば瀬沼は道徳神学、パンテレイモン佐藤は教会史、編集長のペトル石川はキリスト教哲学の講義をすることを約束してくれた。それ以外の人々とはまだ話をしていないが、講義に備えることを断るものはまずあるまい。セミナーは公会後一週間行なう。そこにとどまる伝教者はおそらく少ないであろうが、かれらを一週間にわたりできるだけ安く生活させるために、神学校に住まわせることになる」。しばらく考えたのち、わたしは同意することにした。おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう。利益はもちろん少ないだろう。第一に、講師たちはそれを準備するために本職を怠ることになろう。第二に、聴講者は凡庸で、なにも記憶にとどめることはできまい。だがそこには、よい種ならば捨てられない、もしくは、いくらかでも頭を新鮮にし、浄めてくれるような、よい気晴らし、それになにかの息吹がある。【後略】
-------

とあります。(p92)
ニコライはもともとワシリイ山田の企画にそれほど乗り気ではなかったものの、この種の提案が自発的に出された点を高く評価して、まあ、一つの試みとしてやらせてみるか、みたいな感じで賛成したようですね。
そして、問題の記述が5月11日に出てきます。(p109以下)

-------
一九〇二年四月二八日(五月一一日)。携香女の主日。

【中略】イオアン・アキーモヴィチ瀬沼の言葉によれば、公会に集まる予定の伝教者のために青年会会長ワシリイ山田が企画している夏の講習会について、「すでに講義の準備を約束してくれた四人の博士候補と神学校の教授陣以外に、山田は経済学、民俗学などのテーマで講義をしてくれる大学〔東京帝国大学〕の教授も何人か招こうと企画しており、かれらへの謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」という。くだらん。ワシリイ山田を呼びだして、浮かれることのないように、馬鹿な考えを起こさないように厳しく叱責した。しかもこれが、そうでなくとも金に苦しんでいる伝教者に負担を強いるとなればなおさらである。うちの教授陣に話させればよい。そうすれば、楽しみ以外にも、なんらかの利益をもたらしてくれるだろう。かれらの講義の内容は宗教についてであろうから、伝教者も居眠りせずに聞いていれば、自分にとってなにか新しい、必要な情報を得ることができようし、忘れていたことをおさらいすることもできよう。ところが、経済かなにかの話では、三〇分聞いたところで、馬の耳に念仏で、なんの役にも立たないし、今後それを生かすこともできない。しかもその話に一円五〇銭支払わねばならないとなれば、笑止千万である。しかも自分や人類全体を猿の子孫と考えているような無神論者に自分の汚らわしい思想を語ってもらうために呼ぶというのか。馬鹿馬鹿しい、こんなことは思いもよらないことだ。伝教者のなかで政治やあらゆる最新の夢物語について知りたいと思う者は、一円五〇銭でそのたぐいの本を買い込めば、そこから、三〇分の講義で得られるよりも五〇倍も多くを知ることができるだろう。
-------

うーむ。
第7巻の訳者は半谷史郎・清水俊之氏ですが、これと、

-------
「何と恥かしいことだ! ワシリー山田を呼びつけて気球で空中を旅するようなことをするな、ばかなことを計画するなときびしくしかった。……神学校の教師たちの講義は宗教に関するものだろうから、伝教者たちは、まじめに聴けば、何か新しいことや必要なことを学び、前に習ったが忘れたことを復習することにもなるだろう。しかし経済学その他について、益もなく後で活用することもできないおしゃべりを半時間聴いてどうなる。自分自身をも全人類をも猿の子孫だと思っているような無神論者たちを招いて、くだらないでっちあげをしゃべってもらうなんて! そんなことをするなんぞ、考えるのもごめんだ!」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という『宣教師ニコライと明治日本』の中村訳を比較すると、「浮かれることのないように」が「気球で空中を旅するようなことをするな」となっているなど、中村訳は全体的にかなり強烈な表現になっていますね。
もちろん私には翻訳の適否を判断する能力はありませんが、ニコライは3月13日の時点で「おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう」と懸念しており、5月11日の記事でも、ワシリイ山田が宗教とは関係のない話をする大学教授への「謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」点を一番問題視しているように見えます。
新知識を学びたい者は勝手に学べばよいが、貧しい伝教者から1円50銭も徴収するのはダメだ、そんなことは許さない、というのがニコライの基本的な立場であって、様々な悪口はいつものニコライの習慣のように見えます。
この割と軽めの記事からニコライの「反啓蒙」性を強調するのは少し大げさなようにも感じます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中村健之介『宣教師ニコライ... | トップ | 鈴木範久『日本キリスト教史─... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ」カテゴリの最新記事