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「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)

2017-12-18 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月18日(月)13時44分59秒

『二条良基研究』の「終章」の続きです。(p588以下)

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 そうすれば増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかもしれない。そのことは改めて別稿で考察することとしたいが、こうして良基のもとに遺された増鏡は、生涯に繰り返し紐解かれて、その公家としての営みの上で、直接には朝儀の復興や宮廷行事の開催のための参考とされ、いつしか良基の作として伝えられるという道筋を辿ることになったのであろう。もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば、増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方であろう。
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「そのことは改めて別稿で考察することとしたい」とありますが、国会図書館サイトで『二条良基研究』以降の小川氏の著書・論文を見た限りでは、まだ別稿は出ていないようですね。

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 後醍醐の時代の遺したものはあまりにも大きく、どのようにしてこれを後世に引き継いでいくかが、北朝の廷臣にとっても大きな課題であったのである。もとより「毎事物狂沙汰等也、後代豈可因准哉」(後愚昧記応安三年三月十六日条)と罵った転法輪三条公忠のように、これを全否定するのも評価のひとつである(まして幕府は極めてシビアな負の遺産を抱え込むのである)。さらに北朝に属しながら、良基とは異なる立場の人によって、後嵯峨院時代の巻々を中心に記事を増補した異本が生じていて、増鏡の享受が広範にわたるものであったことを物語っているが、それでも増鏡の主たる享受の様相は、後醍醐を敬慕し続けた良基の生涯と、前述したような方向に沿ってほぼ同じ軌跡を描くことになるのである。
 完全な公家として生きた義満の時代に於ける、さまざまな文化的な営みに、増鏡からの影響を看取する考え方も注目される。たとえば「十四世紀中葉の成立と認められる『増鏡』は、優艶美の熟成された義満時代にとって、重要な助言を与えるものだったにちがいない」との評がその一つである。上のことはいまだ検証されてはいないが、今後追究すべきテーマといえるであろう。
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「十四世紀中葉の成立と認められる『増鏡』は、優艶美の熟成された義満時代にとって、重要な助言を与えるものだったにちがいない」は小西甚一氏『日本文藝史Ⅲ』(講談社、昭和61)480頁からの引用とのことです。

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 以上のように増鏡という書物の成立および享受は、良基の生涯と重ね合わせることで、最も合理的な説明ができる。このことは、最初から良基自身の作として読まれた著作ならば、論を俟たない。良基は、執政である自分が、ある学問・藝能を庇護することの意味を十二分に自覚していたからである。万葉学者の由阿は詞林采葉抄を良基に献上して(三九二頁)、奥書に「被副御本万葉集訖、仍此草已非私ノ者乎」と記している。同じように、新渡の洪武正韻(韻府群玉か)を良基が和漢聯句の押韻に使用したことが(四六七頁)、のちに朝廷に於ける書物の「施行」に擬されている(臥雲日件録抜尤文安五年五月三日条)。このような事例は、他の公家文化人の場合には一寸見当たらないのである。
 それも良基の活動が、この時代の宮廷と学藝との関係に収斂されてくるからなのである。この点は、同じく中世を代表する公家学者、藤原定家・北畠親房・一条兼良・耕雲明魏・三条西実隆らと比較しても、隔絶して特異である。
 親房については、同じく朝廷の柱石としての立場がその活動に反映されているという点で、その事績はたしかに良基と類似している。ただ親房は四十歳近くまでは後醍醐朝に権大納言として仕えた公家であり、良基の責務の重さには及ばない。兼良は、摂政・関白の地位に長く在ったこと、室町殿の政治顧問として働いていることで、良基とも当然多くの部分が重なるが、但し学者としての重要な仕事は南都に隠退して出家した晩年に集中しており、良基ほどには宮廷と学藝との関係を考えずに済んだ筈である。
 この次の段階としては、良基の事績を集成し一覧するため、そしてより優れた本文を提供してその肉声をよく聞きとるために、『二条良基全集』のような書物が編まれることであろう。本書はまことにささやかではあるが、それに資さんとしたものである。
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以上、「終章」の全文を紹介しました。
私には「もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば、増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方であろう」との論理は全く理解できませんし、「増鏡という書物の成立および享受は、良基の生涯と重ね合わせることで、最も合理的な説明ができる」にも全く賛同できませんが、対象を黒く塗ってからその黒さを批判することを避けるため、あえて全文を紹介した次第です。
次の投稿から小川説批判を行ないます。
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