投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 6日(月)10時57分9秒
続きです。(p221以下)
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ニコライは日記に、かれがロシア帰国中の一八八〇年にキーエフで会ったイギリス国教会神父ロンズデールのことを思い出してこう書いている。
「かれはキーエフへ来て、ありとあらゆるものを見ようとした。キーエフの修道院〔有名なペチェルスキー修道院。地下墓地が広がり修道士たちのミイラがいくつもある〕でわたしは……へたな英語でこのブリトン人〔イギリス人〕とかれと一緒にいた若者を部屋に迎えてお茶をご馳走し、それから鐘楼だとか洞窟だとかいろんなところを案内した。一所懸命努力したのだが、キーエフの聖骸に対する崇敬の念をこのブリトン人のうちに呼び覚ますことはどうやらできなかった」(一八八九年九月一二日)
「ブリトン人」ロンズデールは、ペチェルスキー修道院のくねくねと続く暗く細い地下の道を案内され、ところどころの道の横に掘られた洞窟のろうそくの明かりの下に修道士の服をつけたミイラが柩に入って横たわっているのを見せられて、ぎょっとしたのではないだろうか。私もそうろくを手にその細い地下の道を歩いたことがあるが、暗闇の洞窟に置かれたそのミイラの傍らには青白い顔の若い修道士が黙って立って祈りを捧げていたりする。ロンズデールの目にはそれは「土俗的なキリスト教」に見えたことだろう。しかし、案内するニコライは、それらの聖骸に深い崇敬の念を抱いていた。
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1889年9月12日のニコライの日記を見たところ、ニコライは東京と横浜でロンズデールと再会しているのですね。
この時期、東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建設が進んでいて、当日の日記には強い風の影響で工事に支障が出たことも記されています。
ニコライの日記が具体的にどのようなものかの紹介を兼ねて、この日の記述を全て引用してみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、教文館、2007、p275以下)
なお、第1巻の「凡例」によれば、
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①ロシア滞在時の日記は、ロシア暦(ユリウス暦)の日付のみが書かれている。
【例】「一八八〇年四月四日、大斎第五週の金曜、モスクワ」
②ニコライは日本での日記の日付は、ほとんどの場合、まずロシア暦(ユリウス暦)の日付を書き、斜線/を引き、その後に新暦(グレゴリウス暦)の日付を書いている。教文館版では、新暦の日付は( )で示した。
十九世紀では、ロシア暦の日付に一二日を加えると新暦(グレゴリウス暦)の日付となる。ニ十世紀では一三日を加える。
【例】「一八八一年五月七日(一九日)、木曜。熊谷」
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とのことで、1889年9月12日は新暦の日付です。
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一八八九年八月三一日(九月一二日)、木曜。
昨晩からほとんど今朝まで大風がやむことがなかった。鐘楼の足場の解体を始めていたのだが、この作業を終えておくことができなかったので、十分固定されていなかった何本かの棒が強い風に揺り動かされて、十字架の下の急勾配の尖塔の一つに亀裂が入りかけている。表面が三インチ〔約九センチ〕ほどへこみ、銅板の屋根が二ヵ所損傷を受けている。しかし、ありがたいことに、被害はこの程度ですんだ。風はことのほか強烈だったので、足場はどれも少し歪み、丸屋根のスレートが六ヶ所めくれ上がり(施工で手抜きされていたのだ)、庭の桜の木と出版部の柳の木が折れ、塀はほとんどぜんぶ倒れた。ここを風が吹き抜けたのだ。こうした惨状は宣教団だけでなく、市街地やその周辺でも、少なからぬ家屋が倒壊した。近郊では壊れた家の下敷きになって何人かの死者が出た。
ついさっき、イギリスの監督〔ビショップ〕Bickersteth〔エドワード・ビカーステス、一八五〇~九七、イギリス聖公会〕のところから帰ってきた。(この姓は醜悪とは言わないまでも、普通にはあまり綺麗ではない〔bickerには「口げんかをする」という意味がある〕。)イギリスの旅行家でもある Londsdale〔ロンズデール〕師がかれのところに滞在しているというので、呼ばれていたのだ。この人とは一八八〇年にキエフで会ったことがある。かれはこの町の見物にやってきていたのだが、そこの大修道院でロンズデールの修道院見学の案内人をたまたま務めていたさるご婦人への同情の念を抑えるまでもないと思ったので、わたしは彼女をその下手なフランス語から解放すると、自らもっと下手な英語で、このイギリス人とかれに付き添っていたなんとかいう若者とをお茶に招待し、さらにかれを鐘楼や洞窟やその他いろんなところに案内してあげたのである。わたしがどんなに説明しても、どうやら、かれにはキエフの聖骸に対する敬虔の念が目覚めることはなかったようだが、いまもそれは変わらない。
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途中ですが、長くなったので、いったんここで切ります。
The Kyiv-Pechersk Lavra | Kyiv's Architecture: History And Myth
https://www.youtube.com/watch?v=nVX7lWV5RHM
洞窟と聖骸
https://www.youtube.com/watch?v=3uMAfet3TJQ
「英雄のミイラ」(「人もすなるブログといふものを我もしてみむとてするなり」ブログ内)
http://angiebxl.blog.fc2.com/blog-entry-222.html
続きです。(p221以下)
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ニコライは日記に、かれがロシア帰国中の一八八〇年にキーエフで会ったイギリス国教会神父ロンズデールのことを思い出してこう書いている。
「かれはキーエフへ来て、ありとあらゆるものを見ようとした。キーエフの修道院〔有名なペチェルスキー修道院。地下墓地が広がり修道士たちのミイラがいくつもある〕でわたしは……へたな英語でこのブリトン人〔イギリス人〕とかれと一緒にいた若者を部屋に迎えてお茶をご馳走し、それから鐘楼だとか洞窟だとかいろんなところを案内した。一所懸命努力したのだが、キーエフの聖骸に対する崇敬の念をこのブリトン人のうちに呼び覚ますことはどうやらできなかった」(一八八九年九月一二日)
「ブリトン人」ロンズデールは、ペチェルスキー修道院のくねくねと続く暗く細い地下の道を案内され、ところどころの道の横に掘られた洞窟のろうそくの明かりの下に修道士の服をつけたミイラが柩に入って横たわっているのを見せられて、ぎょっとしたのではないだろうか。私もそうろくを手にその細い地下の道を歩いたことがあるが、暗闇の洞窟に置かれたそのミイラの傍らには青白い顔の若い修道士が黙って立って祈りを捧げていたりする。ロンズデールの目にはそれは「土俗的なキリスト教」に見えたことだろう。しかし、案内するニコライは、それらの聖骸に深い崇敬の念を抱いていた。
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1889年9月12日のニコライの日記を見たところ、ニコライは東京と横浜でロンズデールと再会しているのですね。
この時期、東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建設が進んでいて、当日の日記には強い風の影響で工事に支障が出たことも記されています。
ニコライの日記が具体的にどのようなものかの紹介を兼ねて、この日の記述を全て引用してみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、教文館、2007、p275以下)
なお、第1巻の「凡例」によれば、
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①ロシア滞在時の日記は、ロシア暦(ユリウス暦)の日付のみが書かれている。
【例】「一八八〇年四月四日、大斎第五週の金曜、モスクワ」
②ニコライは日本での日記の日付は、ほとんどの場合、まずロシア暦(ユリウス暦)の日付を書き、斜線/を引き、その後に新暦(グレゴリウス暦)の日付を書いている。教文館版では、新暦の日付は( )で示した。
十九世紀では、ロシア暦の日付に一二日を加えると新暦(グレゴリウス暦)の日付となる。ニ十世紀では一三日を加える。
【例】「一八八一年五月七日(一九日)、木曜。熊谷」
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とのことで、1889年9月12日は新暦の日付です。
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一八八九年八月三一日(九月一二日)、木曜。
昨晩からほとんど今朝まで大風がやむことがなかった。鐘楼の足場の解体を始めていたのだが、この作業を終えておくことができなかったので、十分固定されていなかった何本かの棒が強い風に揺り動かされて、十字架の下の急勾配の尖塔の一つに亀裂が入りかけている。表面が三インチ〔約九センチ〕ほどへこみ、銅板の屋根が二ヵ所損傷を受けている。しかし、ありがたいことに、被害はこの程度ですんだ。風はことのほか強烈だったので、足場はどれも少し歪み、丸屋根のスレートが六ヶ所めくれ上がり(施工で手抜きされていたのだ)、庭の桜の木と出版部の柳の木が折れ、塀はほとんどぜんぶ倒れた。ここを風が吹き抜けたのだ。こうした惨状は宣教団だけでなく、市街地やその周辺でも、少なからぬ家屋が倒壊した。近郊では壊れた家の下敷きになって何人かの死者が出た。
ついさっき、イギリスの監督〔ビショップ〕Bickersteth〔エドワード・ビカーステス、一八五〇~九七、イギリス聖公会〕のところから帰ってきた。(この姓は醜悪とは言わないまでも、普通にはあまり綺麗ではない〔bickerには「口げんかをする」という意味がある〕。)イギリスの旅行家でもある Londsdale〔ロンズデール〕師がかれのところに滞在しているというので、呼ばれていたのだ。この人とは一八八〇年にキエフで会ったことがある。かれはこの町の見物にやってきていたのだが、そこの大修道院でロンズデールの修道院見学の案内人をたまたま務めていたさるご婦人への同情の念を抑えるまでもないと思ったので、わたしは彼女をその下手なフランス語から解放すると、自らもっと下手な英語で、このイギリス人とかれに付き添っていたなんとかいう若者とをお茶に招待し、さらにかれを鐘楼や洞窟やその他いろんなところに案内してあげたのである。わたしがどんなに説明しても、どうやら、かれにはキエフの聖骸に対する敬虔の念が目覚めることはなかったようだが、いまもそれは変わらない。
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途中ですが、長くなったので、いったんここで切ります。
The Kyiv-Pechersk Lavra | Kyiv's Architecture: History And Myth
https://www.youtube.com/watch?v=nVX7lWV5RHM
洞窟と聖骸
https://www.youtube.com/watch?v=3uMAfet3TJQ
「英雄のミイラ」(「人もすなるブログといふものを我もしてみむとてするなり」ブログ内)
http://angiebxl.blog.fc2.com/blog-entry-222.html