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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その4)

2018-02-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月27日(火)11時43分16秒

前回・前々回の投稿で外村久江氏の『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』(三弥井書店、1996)から引用した部分は、私の旧サイト、『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でも掲載していたものです。
私はかねてから鎌倉時代を専門とする歴史研究者が早歌に関心を持っていなさそうなことを不思議に思っていて、例えば永井晋氏の『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書、2003)では「主要参考文献」に早歌関係の書籍・論文は見当たらず、本文でも早歌への言及は一切ありません。
そして、同書では祖父実時が源氏物語の良い写本を所有しており、金沢家の学問として漢籍と和歌が重んじられたことの説明はあっても、貞顕自身が源氏物語に深い関心を持っていたことへの言及はありません。
しかし、貞顕は自身が早歌「袖余波」「明王徳」の作詞者であり、「袖余波」は源氏物語を題材としたものです。
貞顕が早歌作詞者であることは外村氏が「早大本」を確認後に主張されたもので、「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」の「四 作詞者通阿について」に、次のような説明があります。(p295以下)

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 余波(なごり)の曲にはこの他に、袖余波(宴曲集三)・留余波(同四)・行余波(同)等の類似の曲があるが、袖余波は諸本皆「或人作・明空成取捨調曲」となっているのに、早大本は「越州左親衛作・明空成取捨調曲」となっていて、作詞者の名が明らかになっている。越州左親衛は金沢貞顕に比定され、この他にも明王徳(究百集)の作詞をしている。この曲も諸本は作詞者が「自或所被出之」とあるのが、竹柏園文庫本・早大本の二本は越州左親衛作となっている。この人の名を諸本が隠した理由は不明だが、早大本の原本は家元的な相当中心となる家に伝えられて、続群書類従系・安田本の諸本は執権職にもついた幕府有力者の貞顕の名を秘していることなどより、他の家の伝授者にわかたれたものではないかと考えられる。
 袖余波は宴曲集三にあるが、これは恋の部で、吹風恋・遅々春恋・恋路・竜田河恋・袖志浦恋・袖湊・袖余波・源氏恋・名所恋という九曲中の一曲である。留余波・行余波は明空の作詞・作曲で、共に宴曲集四雑部上付無常にあり、旅立ちの人へのなごりを歌ったものである。この歌謡にはこの他に旅の歌が多く、当時のこういう方面の関心の強さを示しているが、通阿の余波の曲はこれらとも違ったものである。【後略】
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「この人の名を諸本が隠した理由」について、外村氏は「注(八)」において、「貞顕は宴曲集撰集時期は十九才前、究百集は二十四歳という若さであるから、幕府の重職に就いた頃はその名を秘すことも考えられる。このことからみると、最初の撰集は永仁四年をあまり遡ることは考えられない」と補足されています。(p306)
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので、永仁四年(1296)に十九歳であり、早歌に関心を抱いたのは非常に若い時期ですね。
なお、通阿についての説明の部分は省略しましたが、この人は久我通忠(1216-51)孫、久我具房(1238-89)息の醍醐寺僧で、具房が後深草院二条(1258-?)の従兄弟ですから、後深草院二条にとっては従甥です。
さて、貞顕が作詞した「袖余波」「明王徳」については、『鎌倉文化の研究』の「結語」「一 早歌における「なごり」の展開」(初出は『国語と国文学』46巻4号、1969)に次のような説明があります。

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 初期の宴曲集三は恋を集めたものであるが、その中の袖余波の曲は、先に引いた物語の人物によるなごりをつらねて一曲にまとめたものである。これは、

  さてもこのつれなく見えし在明に や<助音> きぬぎぬの袖の名残
  忘る間なきは 暁思ふ鳥の空音

ではじまり、源氏物語の空蝉、柏木、朧月夜や狭衣物語の飛鳥井の女君、伊勢物語の伊勢における恋等を歌っているものである。この作詞は金沢文庫で有名な金沢貞顕で、この集が永仁四年までに出来ていたとすると、数え十九才で(元弘三年五十六才より逆算)、随分若い時の作品ということになる。なお、貞顕は明王徳(究百集)という曲も作詞しているが、これは堯舜をはじめ、中国日本の明王を挙げたもので、その主題はまことに対象的ではあるが、故事をつらねる作詞方法は前のものと全く同様である。
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「なごり」は別に『とはずがたり』の独占物でも何でもありませんが、「袖余波」が描く世界は、例えば後深草院二条の父・雅忠が死去した後、「雪の曙」が見舞いに訪れる場面などと良く似ていますね。

>筆綾丸さん
>『兼好法師』は不滅の業績ですね。

小川剛生氏もなかなか複雑な人で、『兼好法師』の明晰な論理性と『二条良基研究』「終章」の非論理性が小川氏の中でどのように統合されているのか、ちょっとミステリアスですね。

「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f997bafafa8b1a1bb6d5bd12546fa69


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Der Tod in Venedig 2018/02/27(火) 09:56:07
小太郎さん
本郷和人氏には、研究一筋の愚直な人と違って、余裕が感じられますね。あの野郎、と嫉妬する狭量な研究者も多いだろうな、と思います。

小川剛生氏の『二条良基研究』には、おぼろな記憶ながら、良基と世阿弥との関係の類比として、アッシェンバッハとタージオ(『ヴェニスに死す』)との関係を論じた件があって、なるほど小川氏はそういう人なんだ、とその論文らしからぬ高踏的な記述に驚いたものですが、『兼好法師』は不滅の業績ですね。 

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