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『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」

2018-02-17 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月17日(土)12時12分0秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p345以下)

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 さるほどに、御嫉みには御勝あり。嵯峨殿の御所へ申されて、按察使の二品のもとにわたらせ給ふ、と御所とかや申す姫君、十三にならせ給ふを、舞姫に出だし立て参らせて、上臈女房たち、童・下仕になりて、帳台の試あり。また公卿厚褄にて、殿上人・六位、肩脱ぎ、北の陣をわたる。美女・雑仕が景気などのこるなく、露台の乱舞、御前の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりしを、なほ名残惜しとて、いや嫉みまであそばして、またこの御所御負け、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽をまねばる。
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【私訳】そのうちに、雪辱戦には後深草院がお勝ちになった。新院(亀山院)は嵯峨殿へお招きになって、乳母である按察使の二品(藤原永子)のもとにいらっしゃる「と御所」とか申す姫君の十三歳になられる姫君を舞姫に御仕立て申し、上臈女房たちが童・下仕えになって、五節の帳台の試みの真似があった。また公卿は厚褄で、殿上人や六位の者は衣装を肩脱ぎにし、北の陣を渡った。美女・雑仕の様子などを残りなく演じ、露台の乱舞や御前のお召しの舞など、面白いとも何とも言いようがなかった。なお残り惜しいということで、そのまた雪辱戦までなされて、こちらの御所がお負けになり、負態(まけわざ)は伏見の御所でなさろうということで、『源氏物語』の六条院の女楽の真似を行なうこととなった。

ということで、この「帳台の試」の場面も『増鏡』に少しだけ採用されています。
「と御所」は明らかに不自然ですが、底本はそうとしか読めない字体のようです。
三角洋一氏は「今御所」としています。(岩波『新日本古典文学大系』、p92)

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 紫の上には東の御方、女三の宮の琴のかはりに、箏の琴を隆親の女の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石の上にて琵琶を参るべしとてあり。
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【私訳】紫の上には東の御方、女三宮の琴(きん)の役の代わりに箏(しょう)の琴を、隆親の娘の「今参り」に弾かせようと隆親が特別に所望していると聞いたので、何となく面白くなくて、参加したくもなかったが、「最初の御鞠の折に、新院から格別のお言葉があったりして、そなたをお見知りであるから」ということで、私に明石の上になって琵琶を奉仕せよということであった。

ということで、四条隆親が孫の自分ではなく、晩年に生まれた「今参り」を引き立てようとしていることに後深草院二条は反発を覚えます。
ちなみに四条隆親は建仁三年(1203)生まれで、正嘉二年(1258)生まれの後深草院二条より五十五歳上です。

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 琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらんものぐさながら出で立ちて、柳の衣に紅の打衣、萌黄の表着、裏山吹の小袿を着るべしとてあるが、なぞしも必ず人より殊に落ちばなる明石になることは。
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【私訳】私は琵琶は七つの年から、叔父の雅光の中納言に初めて二、三曲習ったが、あまり心を入れて稽古しなかったのを、九つの年から、また暫く御所(後深草院)が教えて下さって、三秘曲までには至っていないけれども、蘇合や万秋楽などはみな弾いて、後嵯峨院の御賀の折、「白河殿くわいそ」とかいったときにも、十歳で琵琶をおぼつかないながら御前で弾いて、小さいのに感心によく弾いたというので、花梨木の一枚板で甲を造った琵琶で、紫檀の転手のついたものを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨院から賜りなどした。その後は折々に弾いたけれども、あまり身を入れることもしないで来たのを、今ここで弾けと言われるのも面白くなく、何となく面倒に思いながら用意をする。『源氏物語』の明石の上の装束にちなんで柳の衣に紅の打衣、萌黄の表着、裏山吹の小袿を着よということであるが、どうして私がわざわざ他の人よりことに格が落ちる明石の上にならなければならないのだろうか。

ということで、ここで後深草院二条の琵琶の来歴が語られます。
このあたりは『増鏡』の後嵯峨院五十賀試楽の場面との関係で既に紹介済みです。

『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d624c6d4c245b64874dcb63f05afd55c
「くわいそ」は「会所」?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08c4a5c3f77be17cd2f55ac184e14736
白河殿「山上御所」と四条隆親
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5e8f269f9ecb348798cbcd019aa22ed

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 東の御方の和琴とても、日ごろしつけたることならねども、ただこの程の御ならひなり。琴のことの代りの、今参りの箏ばかりこそしつけたることならめ、女御の君は、花山院太政大臣の女、西の御方なれば、紫の上に並び給へり。これは対座に敷かれたる畳の右の上臈にすゑらるべし。御鞠の折にたがふべからずとてあれば、などやらんさるべしとも覚えず、今参りは女三の宮とて、一畳上にこそあらめと思ひながら、御けしきのうへはと思ひて、まづ伏見殿へは御供に参りぬ。今参りは当日に、紋の車にて、侍具しなどして参りたるをみるにも、わが身の昔思ひ出でられてあはれなるに、新院御幸なりぬ。
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【私訳】東の御方の和琴といっても、日頃弾き慣れているということではなくて、つい最近の御練習である。女三の宮の琴(きん)の代わりに弾く今参りの箏の琴だけこそ修行したものであろうが。女御の君の役は花山院太政大臣(通雅)の娘、西の御方なので、紫の上になる東の御方とお並びになる。私は対座に敷かれた畳の、右の上席につくはずだった。御鞠の折の席次とは違ってはならないとの仰せではあったが、何となくそれでよいとも思えず、今参りは女三宮の役であるから一畳上に座るのではないだろうかとは思いながら、院の仰せであるからと思って、まずは伏見の御所にお供して参った。今参りは当日に、家の紋を描いた車で、従者を連れなどして参ったのを見ても、わが身の若かったころが思い出されて感慨深く思っていたところに新院の御幸があった。

ということで、今参りへの対抗心の余り、「東の御方」(洞院実雄女、煕仁親王母の洞院愔子、後の玄輝門院、1246-1319)への批評など、いささか八つ当たり気味です。

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