学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

0168 「護良は後醍醐に無断で将軍を自称」したのか。(その2)

2024-09-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第168回配信です。


一、前回配信の補足

亀田俊和氏よりのコメント
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/279e4d8b994c5a1e18a1bfece67500ac


二、森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)〔2021-01-27 〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4778a51527604447c0e933ebcdadfbbb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbde7787a86b6133c16f9b56acb161ba
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

六波羅は危機的状況、しかし鎌倉はなお堅固と思われていた時点では、鎌倉から「征夷大将軍」を剥奪して護良に与えることには大きな政治的効果が期待できたはず。
(令旨をもらう側としては、「大塔二品親王」名義よりは「将軍宮」名義の方が有難みがあったのではないか)
後醍醐と護良との連絡も、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐が船上山に移って以降はさほど困難ではなかったはず。
征夷大将軍任命の手順としては、護良が希望もしないのに後醍醐が一方的に任命するのも変なので、六波羅陥落前に護良から提案があって、陥落直後に後醍醐の了解の意思が護良に伝達され、五月十日から使用しはじめた、ということではないか。
ただ、森論文を検討した時点では征夷大将軍に任命する正式な手続きについては考慮していなかった。
征夷大将軍の正式な任命には宣旨が必要で、院宣などより遥かに面倒。
正式な手続きは後醍醐の入京後と考えれば、『増鏡』の「速やかに将軍の宣旨をかうぶり給ひぬ」という表現にも適合しそう。

将軍宣下
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%A3%E4%B8%8B

兵藤裕己校注『太平記(二)』、p216以下
-------
 清忠帰参して、この由を奏聞しければ、主上、具〔つぶさ〕聞こし召して、「大樹の位に居して、武備の守りを全くせん事は、げにも朝家のために、人の嘲りを忘れたるに似たり。高氏誅罰の事は、かれが不忠それ何事ぞや。天下の士卒、太平の後〔のち〕なほ恐懼の心を抱けり。もし罪なきに罰を行ひなば、諸卒豈〔あ〕に安堵の思ひをなさんや。しかれば、大樹の任に於ては子細あるべからず。高氏追罰の事に至つては、堅くその企てを留むべし」と聖断あつて、征夷将軍の宣旨をぞなされける。
 これによつて、宮の御憤りも散じけるにや、六月六日、信貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じ一三日、御入洛あり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a

『増鏡』巻十七
-------
 十三日大塔(たふ)の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男(をとこ)になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂(よろひひたたれ)といふもの奉りて、御馬(むま)にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士(ものもふ)どもうち囲みて、御門(みかど)の御供なりしにも、ほとばと劣るまじかめり。速やかに将軍の宣旨(せんじ)をかうぶり給ひぬ。

https://web.archive.org/web/20150918011331/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-ketumatu.htm
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2 コメント

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Unknown (亀田 俊和)
2024-09-14 09:10:54
配信見ました。確かに黙認という表現は不正確でしたね。様式はわかりませんが、将軍就任を認める文書が出ていたと思います。さすがに使者が口頭でだけってことはなかったでしょうね。
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信貴山エピソード (鈴木小太郎)
2024-09-14 16:38:30
>亀田先生
今回配信は本当に準備不足で、頂いたコメントの紹介も最後の方で慌ただしく行うこととなってしまい、申し訳なく思っています。
後醍醐が五月の時点で護良に征夷大将軍任官を認めていたとすると、やはり『太平記』の信貴山エピソードは何だったのか、という話になりますね。
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