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白河殿「山上御所」と四条隆親

2018-02-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 2日(金)18時00分40秒

「深心院関白記」では「富小路殿舞御覧」の六日後、閏正月二十三日の記事がちょっと面白いですね。

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天晴、時々微雪下、 上皇御幸白河殿、余依仰追参、及晡時小童〔家基〕参、於山上御所有胡飲酒、小童舞之、有叡感、人々称美、其次地下舞一両有之、事了余退出、即有還幸云々、小童着布衣、退出之時賜御本、<付松枝、入錦袋、>舞師〔多〕忠茂又給御衣、密々儀也、兵部卿〔藤原、四条〕隆親召砌賜之也、
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後嵯峨院の白河殿への御幸があり、私も仰せに従って参った。申の刻(夕暮れ時)、息子の家基(八歳)も参り、白河殿の「山上御所」で「胡飲酒」を舞い、後嵯峨院に褒められ、人々にも賞賛された。息子は退出の時に松枝が付き、錦の袋に入った「御本」を賜り、舞の師匠の多忠茂も御衣を給わった。

とのことで、この記述は『増鏡』の「富小路殿舞御覧」の場面を連想させます。

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 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日ぐらしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は実俊の中将とかねては聞えしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞ゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、この試楽より先なりしにや、内々、白河殿にて試みありしに父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いとうつくしう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

こちらは「近衛の前の関白殿」なので鷹司兼平(1228-94)とその息子・兼忠(1262-1301)の組み合わせですが、「白河殿」において、後嵯峨院と父親が見守る中で幼い息子が「胡飲酒」を舞い、「院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける」という経緯は近衛基平(1246-68)とその息子・家基(1261-96)の場合と全く同じです。
まあ、廷臣の親バカを利用した後嵯峨院の人心収攬術のような感じがしないでもありませんが、後嵯峨院は若い頃に苦労しただけあって、人事に巧みな人であることは間違いないですね。

近衛家基(1261-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
鷹司兼忠(1262-1301)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%BF%A0

また、「深心院関白記」の白河殿「山上御所」と、『とはずがたり』の「白河殿くわいそ」の関係も問題となりますが、「くわいそ」はやはり会所で、「山上御所」の一部が「会所」として用いられていたのではないかと思います。
久保田淳氏の『完訳日本の古典第38巻 とはずがたり(一)』(小学館、1985)を見たところ、久保田氏は「荒序」派であり(p116)、また、西沢正史・標宮子氏の『中世日記紀行文学全評釈集成 とはずがたり』(勉誠出版、2000)も「荒序」派で(p161)、国文学者の間では「荒序」派が多数のようですが、歴史研究者に質問したら、おそらく大多数が「会所」と答えるのではないかと思います。
「会所」というと室町以降の用例が多いのは確かですが、鎌倉期にもそれなりにありますね。

会所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%89%80_(%E4%B8%AD%E4%B8%96)

更に、「深心院関白記」に四条隆親(1203-79)が登場するのも興味深いところです。
「兵部卿〔藤原、四条〕隆親召砌賜之也」は、四条隆親が「御本」や「御衣」などの下賜品を用意していることを意味しているのでしょうが、こうした役割は隆親と後嵯峨院の密着ぶりを他の廷臣に誇示する側面もありそうです。
ま、後嵯峨院の邸宅・冷泉万里小路殿も元々は隆親の邸宅ですから、両者の密着ぶりは周知のことではありますが、儀礼的な場面での登場は、それなりの政治的意味を持ちそうですね。
また、後深草院二条は「花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして」と自慢しますが、これも実際に下賜品の高級琵琶を用意したのは隆親ではなかろうか、と想像すると、いささか皮肉な味わいが生まれてきます。
こちらは、単なる財貨の側面だけを見れば、後嵯峨院は琵琶を右から左にパスしただけ、祖父が購入した高価な琵琶が孫に移っただけなのかもしれません。

『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d624c6d4c245b64874dcb63f05afd55c

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