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同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その3)

2021-01-12 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月12日(火)14時03分21秒

以下、第三十巻第十一節「恵源禅門逝去の事」の全文です。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p62)

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 かかりし後は、高倉殿に付き順ひ奉る侍、一人もなし。籠の如く(なる)屋形の、荒れて久しきに、警固の武士を居〔す〕ゑられて、事に触れたる悲しみのみ耳に満ちて、心を傷〔いた〕ましめければ、今は浮世の中に長らへても、よしや命を何にかはせんと思ふべき。わが身さへ用なき物に歎き給ひけるが、幾程なく、その年〈観応二年癸巳〉二月二十六日に、忽ちに死去し給ひにけり。俄かに黄疸と云ふ病に犯されて、はかなくならせ給ひぬと、よそには披露ありながら、実〔まこと〕は鴆に犯されて、逝去し給ひけるとぞささやきける。
 去々年の秋は、師直、上杉、畠山を亡ぼし、去年の春は、禅門、師直、師泰以下を誅せらる。今年の春は、禅門また、怨敵のために毒を呑みて、失せ給ひけるこそあはれなれ。「三過門間の老病死、一弾指頃の去来今」(とも、かやうの事をや申すべき。因果歴然の理りは)、いまに始めぬ事なれども、三年の中に日を替へず、酬ひけるこそ不思議なれ。
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この直義の死について、佐藤進一氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において次のように述べています。(p262)

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 十一月三日、尊氏は綸旨拝受の請文(答書)を使者に渡すと、翌日、京都の守備を義詮に任せて東下した。十六年前、中先代の乱で救援に向かった当の実弟直義を討伐するためである。
 尊氏は駿河の蒲原、伊豆の国府、相模の早河尻で直義軍を破って、翌年正月五日、鎌倉に入り、直義をくだした。その翌月ちょうど高師直・師泰の一周忌に当たる二月二十六日に直義は死んだ。享年四十五歳。死因については『太平記』が、「黄疸という発表だが、じつは鴆毒をもられたといううわさだ」と伝えているだけであるが、多くの学者はこのうわさはおそらく真実を伝えるものと見ている。
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最近の研究者でも、例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、

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 十二月、尊氏は、駿河湾を東にのぞむ薩埵山(現在の静岡県静岡市)に陣を構え、そこを死守し、ついに下野宇都宮氏らの支援をうけ、直義軍を壊滅させる。伊豆山中に遁れた直義は戦意を喪失し、尊氏に降伏。翌年正月、そのまま尊氏にともなわれて鎌倉に入った。
 そして二月、直義は幽閉先の鎌倉浄妙寺境内の延福寺において、謎の死をとげる。享年四十六歳。死去した場所は延福寺ではなく、別に大休寺とも、稲荷智円坊屋敷とも言われている。『太平記』は、直義の死因を「鴆毒」(鳥の羽の毒)によるものと述べ、尊氏による毒殺であったとの噂を伝えている。
 この『太平記』の記述をめぐって、直義の死は暗殺か自然死か、古くから研究者のあいだで議論が分かれている。しかし、私は、やはり偶然にしては直義の死はあまりにタイミングが良すぎる気がする。直義の存在によって、これ以上、幕府が動揺するのを抑えるため、尊氏は、みずからの判断で実の弟に手を下したのではないだろうか(なお、直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もあるが、そこまで念の入ったことをする必然性は感じられないので、うがち過ぎであるように思える)。なお、このあと尊氏はみずからが死去する二カ月前に、にわかに直義の霊に従二位の位を与え、弟の霊を慰めることに努めている。実の弟をわが手にかけて平静でいられるはずもなく、どうやら尊氏は死の間際まで良心の呵責に苛まれていたようである。
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と書かれています。(p82以下)
他方、亀田俊和氏は『観応の擾乱』(中公新書、2017)において、

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 直義は尊氏に毒殺されたとする説が、古くから有力である。しかし、筆者はこの見解には懐疑的である。
 古今東西、政争に失脚した政治家が失意のうちに早世することは頻繁にある。四六歳という享年も、当時としてはよくある年齢である。甥の義詮も三八歳で死去している。史料的にも毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない。【中略】
 管見の限りでは、筆者以外に毒殺説を否定する論者に峰岸純夫氏がいる。峰岸氏は、黄疸が出たとする『太平記』の記述に基づいて、直義の死因を急性の肝臓ガンであったと推定する(『足利尊氏と直義』)。
 少なくとも高師直との抗争が勃発して以来、直義の精神的・肉体的な重圧が相当なものであったことは確かであろう。兄や甥と望まない戦争を行わざるを得ない状況となり、四〇歳を超えて初めて授かった実子も陣中で失った。再三指摘する合戦での消極性も、健康状態の悪化が一因だった可能性もある。加えて、幽閉先で失意を紛らわせるために酒を飲みすぎるなどして黄疸が出たことは十分にあり得ると思う。
 ただし直義の場合、死去した月日が偶然にも師直の命日と重なった。そこから、当時から毒殺説が流布したのだと考える。
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とされています。(p174以下)
まあ、私は「史料的にも毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない」だけで毒殺否定説が正しいと思いますが、『太平記』に描かれた二つの鴆毒エピソードのうち、恒良・成良毒殺エピソードが、少なくとも成良に関しては「荒唐無稽だというほかない」(by 森茂暁氏)以上、これと明らかに関係づけられた尊氏による直義毒殺エピソードも「荒唐無稽だというほかない」と考えます。
尊氏・直義が恒良・成良を鴆毒で殺したというエピソードを創作した『太平記』の作者は、その因果応報で直義も尊氏に鴆毒で殺されたのだというエピソードを創作した訳ですね。
西源院本ではそこまではっきり書いてはいませんが、流布本では恒良・成良毒殺エピソードに「かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒殺せられ給ふ事こそ不思議なれ」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p282)という文章が付け加えられていて、こうした発想が中世の人の常識だったことが伺われます。
それにしても、毒殺否定説の論者が亀田氏と峰岸氏以外にいないらしいことは本当に驚きです。
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