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「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)

2018-03-15 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月15日(木)10時44分50秒

3月11日の投稿で<「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い>とか書いてしまいましたが、高義の生没年から考えると、高義の遺児はいかにも若年ですね。
清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)によれば、

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兄高義の死
 高氏の兄、高義の履歴をたどるのは容易ではないが、正和四年(一三一五)十一月には「足利左馬助」の名で鶴岡八幡宮の僧円重に対して供僧職を安堵していることが確認できる(「鶴岡八幡宮寺供僧次第」)。ときに高義は十九歳。このとき父貞氏はまだ四十三歳であったが、すでに三十歳以前には心身に変調をきたしており、十年ほど前、尊氏が生まれる前後には出家をとげてしまっていた。おそらく、この時点で足利家の家督も、貞氏から高義へと譲られてしまっていたのだろう。
 ところが、ここで尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態がおこる。文保元年(一三一七)六月、兄高義がわずか二十一歳の若さで早世してしまうのである(『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」)。これにより妾腹の二男坊だった尊氏に、にわかに注目が集まるようになる。しかし、この時点で尊氏はまだ十三歳。一方、「足利系図」(『続群書類従』)によれば、兄高義には「某 安芸守」と「源淋 田摩御房」とよばれる少なくとも二人の男児があった。また、高義の生母で貞氏の正室の釈迦堂殿がまだ健在であることを思えば、尊氏への家督継承は決して確定的なことではなかったようだ(釈迦堂殿は暦応元年<一三三八>九月没。「稲荷山浄妙禅寺略記」)。
 文保二年(一三一八)九月には、貞氏の名前で、長七郎季連に能登国土田荘上村半分以下が安堵されている(松雲公採集遺編類纂)。つまり、高義の死後、隠居したはずの貞氏が再び足利家の家督の座に復帰し、家政をとりしきっているのである。おそらく、ふたりの孫はまだ幼く、二男の尊氏も年少であることから、やむなく貞氏が中継ぎ役として再登板したのだろう。この時点では、まだ足利家の家督は尊氏に継承されるのか、それとも高義の遺児に継承されるのか不透明だったはずで、尊氏は依然として家督後継候補のひとりにすぎなかったのである。
 事実、この後、貞氏は中継ぎ役とはいいながら、元徳二年(一三三〇)正月まで文書を発給し続けており(金沢文庫古文書)、なお十五年近く家政を運営していたことがうかがえる。それに対し、尊氏が当主として発給した文書は、元徳四年(一三三二)二月まで下らないと確認できない。けっきょく貞氏は元徳三年(一三三一)九月に五十九歳で死去するまで、家督を手放さなかったようである。【後略】
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ということで(p22以下)、没年から引き算すると高義は永仁五年(1297)生まれで、尊氏(1305-58)より八歳の年長です。
高義の長男が仮に高義十五歳のとき、即ち1311年生まれとしても、高義没の時点で僅か七歳ですから直ちに家督を継ぐのは全く無理で、とすると釈迦堂殿も尊氏がそれこそ「中継ぎ役」に留まるのであれば、少なくともある時期までは上杉清子側に協力していたと考えることもできそうですね。
上杉家の努力だけでなく、釈迦堂殿の兄(弟)の金沢貞顕の口添えがあれば、『続後拾遺集』入集も円滑に進んだはずです。
ところで、貞氏について清水氏は、

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貞氏の「物狂」
 これまで足利氏の当主の履歴をみてきた。従来、鎌倉時代の足利氏については、義兼の唐突な出家は不思議な遺言、あるいは泰氏の「自由出家」事件、家時の自害などをもとに血統的な精神異常が指摘されてきた。しかし、近年の研究から学んでこれまで紹介してきたとおり、それらの奇矯とも思える当主たちの事跡は、すべて鎌倉幕府内部の権力闘争と連動させて考えることが可能であり、それをもって彼らの心身の異常を指摘することは適切でないことがおわかりいただけたと思う。
 ただ、歴代足利氏のなかで、唯一、明らかに発狂の徴証のある人物が残されている。それが、尊氏の父、貞氏である。正安四年(一三〇二)二月九日、貞氏は「物狂所労」(精神錯乱の病気)が長年にわたるので、「物付」すなわち物の怪がとりついているのではないかと噂されたため、祈禱が執り行われ、いくぶん快方に向かった、という趣旨の記述が『門葉記』巻七十「冥道供」七にみえる。ここまで明確に「物狂」と指摘される史料が残されているのは、歴代当主のなかでも貞氏しかおらず、彼については精神疾患の事実を認めるほかない。ただ、それについても、発病にいたる経緯をみてみると、それなりに彼を追いつめる外的な条件がやはり指摘できそうである。以下では、貞氏の生涯を追うことで、彼の発病にいたる経緯を確認してゆきたい。
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と書かれていますが(p134)、祈禱の効果を強調したい側の「物狂所労」という記録だけで、これを「精神錯乱の病気」とし、「明らかに発狂の徴証のある人物」、「彼については精神疾患の事実を認めるほかない」と断じるのは軽率ではなかろうかと思います。
そもそも「精神錯乱の病気」の人が、いったん「隠居」した後、「再び足利家の家督の座に復帰し、家政をとりしきっている」状態を十五年続けることができるのか。
私も精神医学の専門的知識など全くありませんが、素直に考えれば貞氏の「物狂所労」は憂鬱で無気力な状態が長く続いた程度の話ではないですかね。
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