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「有明の月」考(その5)─「赤裸々莫迦」タイプではない次田香澄氏

2018-04-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月26日(木)12時03分53秒

「有明の月」が『とはずがたり』に登場した初期の場面を見て改めて驚くのは、そのストーリー展開の早さですね。
この点、次田氏も「解説」で次のようにいわれています。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p304)

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 院の病気平癒の修法に来た有明はこれを好機として彼女に迫る。しかし、御所内のことであるから、彼女のほうから有明を訪ねるのでなければ、彼はどうにもならないわけだが、意外にはやく事が進展してゆくのは、彼女の内部に、有明の情熱に応えないではいられない何かがあるからだ。
 この段だけでも、「樒つむ」の歌をもらったことが、彼に対し強い関心をもつに至った転機となったことを告白しており、それから日ならずして契りを交わすまでになる。そして後朝の文「うつつとも」の歌を取り換えた小袖に見出して、いよいよ彼女は不羈な行動に出る、というテンポの早さである。
 それにしても、六段では人ごとのように傍観的(「をかし」がそれを表していた)だった彼女が、有明のどういうところに惹き付けられたか、また彼女の心がどのように変化していったかを追求してみるのは興味深い。
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「六段」とは次田著での区分で、「有明の月」が最初に登場する場面です。

「有明の月」考(その1)─「心の中を人や知らんといとをかし」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1719453aaac1081484c38f6e51ea6d0

『とはずがたり』の出来事を年表に落としたときに生じる史実との数多くの矛盾、そしてあまりに早すぎるストーリー展開から一番素直に出てくる結論は、『とはずがたり』は事実の記録ではなく自伝風小説なのだ、ということではないかと思いますが、次田氏は決してそのようには考えません。
ただ、次田氏は「作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人たち」ではありません。
この種の研究者、まあ、強いて名づければ「赤裸々莫迦」タイプは、国文学研究者では元・宮内庁書陵部図書調査官の八嶌正治氏が典型であり、歴史学者では森茂暁氏、遡れば網野善彦氏もこのタイプです。

第三回中間整理(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f6f8f9b9b6304d2a185c8cb9e7d468e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7e9e1d1c173739f33283b77d9106a3c

ところが次田香澄氏の場合、もちろん『とはずがたり』の赤裸々な描写にいちいち驚くという素朴な面はあるのですが、その後深草院二条に寄せる深い信頼には、不羈奔放な孫娘の行動を辛抱づよく見守る祖父母のような暖かさがあります。
「保護者」タイプとでもいうべきですかね。
他方、本郷恵子氏などはまたちょっとタイプが違っていて、「彼女に対して積極的に好意を示す亀山の態度は、『源氏物語』の"色好み"の系譜に連なるともみえて、あくまで比較の問題であるが、いっそ気持ちがよい」、「明確な自我をもった女性であるだけに、胸中の葛藤に出口を与えるために、『とはずがたり』は書かれなければならなかったのだろう」などという表現を見ると、自己に課せられた束縛からの解放願望を『とはずがたり』に投影されているような感じもします。

「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5673c62698f60bf0423ed3ca9d42503

また、小川剛生氏の場合、私には『とはずがたり』の中でも一番嘘っぽく思える「有明の月」の実在を確信されているようで、「有明の月」がこれこれの行動を取っているから「当時の高僧が女性を養うことは珍しくな」かったと断定され、その上で具体的な歴史的存在である高僧・顕助と堀川具親母の関係を推定するという順番で思考を展開されており、私には極めて奇異に思えます。
ただ、小川氏は未だにきちんとした『とはずがたり』論を書かれていないようなので、小川氏も「赤裸々莫迦」タイプなのか、それとも新たな分類が必要なのかは謎として残っています。

「有明の月」は実在の人物なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3127914da2ef6d6d1afc9ce61dbbbaec

「有明の月」の検討は今後も継続的に行うつもりですが、いったん『とはずがたり』を離れ、次の投稿から『増鏡』に戻ります。

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