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近衛宰子の「密通」について

2018-01-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月25日(木)11時15分28秒

『増鏡』とは少し離れますが、宗尊親王が鎌倉を追放された理由とされる御息所の密通云々は何だか良く分からない話ですね。
最近の概説書では、例えば近藤成一氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において次のように書かれています。(p89以下)

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 文永三年(一二六六)に将軍宗尊が京に送還されることになったのは、御息所の密通事件がきっかけだった。宗尊の御息所は前摂政近衛兼経の娘宰子であるが、母は九条道家の娘仁子である。仁子は四代将軍頼経と父母を同じくする。宰子は正元二年(一二六〇)関東に下り、時頼の猶子として宗尊と結婚した。婚姻の儀も時頼の最明寺邸において行なわれている。そして文永元年(1264)に若宮惟康が誕生した。宰子の密通の相手とされた松殿僧正良基は松殿基房の孫である。基房は近衛基実・九条兼実の兄弟にあたり、基実の死後、摂政・関白の職を継いだが、木曽義仲と結んだために義仲の没落とともに失脚し、松殿家は摂関家から脱落した。良基は貞応二年(一二二三)にはすでに鎌倉に姿をみせており、その頃から幕府において護持層の役割を務めていたものと思われる。
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ここに出てくる人々の生没年を見ると、

松殿基房(1145-1231)
九条道家(1193-1252)
近衛兼経(1210-59)
九条頼経(1218-56)
北条時頼(1227-63)
近衛宰子(1241-?)
宗尊親王(1242-74)

という具合ですが、問題は松殿良基です。
松殿良基が『吾妻鏡』に最初に登場する貞応二年(1223)六月二十六日条では「天晴。於五佛堂所被修之千日御講。今日被結願。導師松殿法印。請僧十二口。二品御參堂云々」とあり、良基は既に法印で、北条政子が出席するような重要な仏事を主導する立場になっています。
良基の父、松殿忠房(1193-1273)の生年を考えると、仮に忠房が二十歳のときの子だとして、建暦二年(1212)生まれですから、鎌倉に登場した時には十二歳ですね。
さすがにその年で「導師」はありえないでしょうから、もう少し上としても、せいぜいプラス五歳くらいでしょうか。

松殿忠房(1193-1273)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%BF%A0%E6%88%BF

そして問題の文永三年(1266)は松殿良基が最初に『吾妻鏡』に登場してから四十三年後であり、五十五歳から六十歳くらいですかね。
まあ、「密通」が無理な年齢ではないにしても、何だか不自然な感じは否めません。
更に奇妙なのは『尊卑分脈』の「延慶元年十二月入」という没年で、延慶元年は1308年ですから建暦二年(1212)生まれとして九十五歳ですね。
プラス五年でちょうど百歳で、まあ、これもあり得ない話ではないといえ、ずいぶん長命な人ですね。
(※没年には異説もあります)

さて、上記引用部分に続けて、近藤氏は、

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 文永三年三月六日、宗尊は側近の木工権頭藤原親家を内々の使として上洛させた。六月五日に鎌倉に戻った親家は、後嵯峨上皇の内々の諷詞を伝えたが、御息所に関するものであったという。この後、鎌倉中が騒動となり、宗尊が謀叛の嫌疑により京に送還されることになる。どうしてそういうことになったのかがわかりにくいが、想像するに、宗尊は、御息所を離縁するような強硬な措置をとろうとして父の後嵯峨上皇に相談したのであるが、上皇はそれを好まなかったのではないか。幕府のほうからしても、宗尊の行動は執権・連署との相談なしの独走であり、宗尊は孤立してしまったのではないか。
 宗尊の使を務めた親家が鎌倉に戻った後の六月二十日、時宗邸に執権政村、金沢実時、安達泰盛が集まり秘密の会合を持ったが、この席で、宗尊を京に送還し、三歳になる若宮惟康を次の将軍に戴くことが決められたのであろう。宗尊は七月二十日に入洛したが、翌二十一日、幕府からの使節として二階堂行忠と安達時盛が京に入り、二十二日関東申次西園寺実氏に面会して、惟康を将軍とすることを申し入れた。惟康は二十四日の小除目により征夷大将軍に補せられた。
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と書かれており、「御息所を離縁するような強硬な措置」ですから、近藤氏は「密通」自体は事実と考えておられるようですね。
まあ、結局は良く分からない話ですが、「密通」が事実ではないとしても、宗尊の御息所への対応が執権北条政村以下の幕府中枢に不信感を与え、将軍として不適格との判断をもたらしたのでしょうね。
私としては宗尊親王が余りに熱心に和歌に取り組んだため、一方で熱烈な信奉者を生むとともに、他方で文化的な違和感を覚える敵対者を生み、「密通」事件をきっかけに武家社会の在り方を巡る一種の文化闘争・思想闘争が起きて和歌への敵対者が勝利したのかな、などと想像するのですが、これも小説の域に入ってしまいそうですね。
もちろん執権の北条政村自身は勅撰集入集歌も多い歌人ですが、政治家として、幕府内の分裂を招くような事態は避けたい、という判断は十分あり得るものと思います。
一般論として、和歌はその才能のない者にとっては「差別」そのものであり、「差別」された側に執念深い敵意をかきたてるものではないかと思いますが、これで特定の政治的事件を説明するのはさすがに妄想と呼ばれそうなので、このあたりで止めておきます。
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