学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔

2018-03-17 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月17日(土)21時54分48秒

さて、久しぶりに『増鏡』に戻りたいと思います。
2月11日の投稿で後嵯峨院崩御後に小倉公雄が出家した場面を検討しましたが、その続きとなります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p174以下)
『増鏡』原文は井上著に従い、現代語訳は特に明記しない限り拙訳です。

「巻八 あすか川」(その15)─小倉公雄
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d952eedc3d611fae6247e17e1db6b4

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 あはれに悲しといひつつも、止まらぬ月日なれば、故院の御日数〔ひかず〕も程ならず過ぎ給ひぬ。世の中は新院かくておはしませば、法皇の御かはりにひきうつしてさぞあらん、と世の人も思ひ聞えけるに、当代の御一つ筋にぞあるべきさまの御おきてなりけり。長講堂領、また播磨国、尾張の熱田の社などをぞ御処分ありける。
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【私訳】哀れに悲しいと言いつつも、月日は止まるものではないから、故院の御中陰(四十九日)もまもなく過ぎ去った。天下の政治は新院(後深草院)がこうしていらっしゃるので、故法皇の御代りに引き移して新院が院政をなさるのだろうと世人は推察申し上げていたところ、今上(亀山天皇)の(親政そして皇位はその子孫の)御一系にせよとの御遺詔であった。長講堂領、播磨国、尾張の熱田社などを(後深草院に)御分配になった。

ということで、後嵯峨院の遺詔は亀山とその子孫が皇統を継ぐものと定めていた、というのが『増鏡』の一貫した立場であり、この見解はこの後、何度も繰り返し述べられることになります。
特に初出のこの場面では、「世の人」は後深草院の院政が始まると思っていたが、それにも拘らず後嵯峨院の遺詔があったので亀山子孫が皇統を継ぐことになったのだと、「後嵯峨院の素意」の明確さをくっきりと描き出すための背景として「世の人」の評判を持ち出しています。
しかし、歴史的事実としては、後嵯峨院の遺詔には誰を治天とするかを明記していません。
また、後嵯峨院の明確な意思に基づき、既に文永五年(1268)に亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が皇太子となっていたのですから、「世の人」、即ち宮廷社会の多数派はむしろ亀山子孫が皇統を継ぐものと思っていたはずで、この点でも『増鏡』の記述には不自然さがあります。

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 いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡らせ給ひし此、祇園の神輿たがひの行幸ありし時、御対面のやうを、故院へたずね申されたりしにも、「われとひとしかるべき御事なれば、朝覲になぞらへらるべし」と申されける。一つ御腹の御このかみにてもおはします。かたがたことわりなるべき世を、思ひの外にもと思ふ人々も多かるべし。「いでや位におはしますにつきて、さしあたりの御政事などはことわりなり。新院にも若宮おはしませば、行く末の一ふしはなどか」など、いひしろふ。
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【私訳】いつの年のことであったか、新院が六条殿にいらっしゃった頃、今上(亀山)が祇園御霊会の折、神輿を避けて六条殿へ行幸された時、どのように御対面すべきかを故院(後嵯峨)にお尋ね申し上げたところ、故院は「私と同じ上皇の立場なのだから、朝覲の儀に准ずるのがよい」と申された。後深草院は御同腹の御兄でもいらっしゃる。あれこれ考え合わせて、後深草院の院政が道理であるのに、意外なことだと思う人も多いだろう。「いやまあ、今上がさしあたり御政務をとられるのは道理であるが、後深草院にも若宮がいらっしゃるので、将来の皇位継承についてはどうか」などと言いあう。

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 かかれば、いつしか院方・内方と人の心々もひき分るるやうに、うちつけ事ども出で来けり。人ひとりおはしまさぬあとは、いみじき物にぞありける。朝の御まぼりとて、田村の将軍より伝はり参りける御はかしなどをも、かの御気色のしかおはしましけるにや、御かくれの後、やがて内裏へ奉らせ給ひにしかば、それなどをぞ、女院のうらめしき御事には、院も思ひ聞えさせ給ひける。さてしもやはなれば、この由をも関の東へぞ、のたまひ遣しける。
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【私訳】このような状態なので、いつしか後深草院方、今上方と人の心も二つに分かれるようになって、ぶしつけな事も起きるようになった。大事な方一人(後嵯峨院)がいらっしゃらなくなった後は、なんともひどいものである。朝廷の御守護として将軍坂上田村麻呂から伝来した御佩刀なども、故院の御意向がそうであったためか、崩御の後、直ちに内裏へ奉られたので、そうしたことも、後深草院は大宮院の不公平な処置として恨めしく思われる。そのままにしてもおけないので、この由も関東へ仰せ遣わされた。

ということで、最後の方に少し唐突な感じで「女院のうらめしき御事」云々と出てきますが、これは後嵯峨院が遺詔では皇嗣について定めず、関東の意向を尊重する形を取ったところ、逆に関東から大宮院に後嵯峨院の遺志を問い合わせてきて、それに対し大宮院が後嵯峨院の素意は亀山にあると答えたとの経緯を踏まえたものです。
『増鏡』作者は明らかにそのような経緯を熟知しているはずですが、明確には記述しません。

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