学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇」(by 兵藤裕己)

2018-05-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月19日(土)20時52分50秒

昨日、「「関東伺候廷臣」の処遇について後嵯峨院が「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」と言ったという話は『増鏡』にしか出てきません」と断定的に書いてしまいましたが、私も別に史料を遍く渉猟した上で、このような結論に達した訳ではありません。
それどころか、怠慢にも一般向けの歴史書をパラパラ見ているだけなのですが、例えば遠藤珠紀氏(東大史料編纂所助教)は『現代語訳 吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館、2016)所収の「京下りの人々 1 官人」において、

-------
 さらに京からの下向が増えるのは、六代将軍宗尊親王の時代である。建長四年(一二五二)、時の治天後嵯峨院の皇子宗尊親王が下向した。下向に当り、後嵯峨院は供奉の人々に「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官(つかさ)、かうぶりなどはさはりあるまじ」(『増鏡』「内野の雪」)と仰せたという。すなわち鎌倉での奉公も、京都での奉公同様に評価し昇進にも差支えない、ということである。これ以前には、関東にいて伺候していないことを理由に昇殿を止められた人物もおり(『明月記』寛喜三年七月三日条など)、いささか雰囲気も変化したのだろうか。宗尊親王には、藤原(花山院)長雅・源(土御門)顕方・源(土御門)顕雅以下、多数の公卿・殿上人たちも随行した。その子孫たちも鎌倉での活動が確認される。
-------

と書かれています(p146)。
私の狭い知見の範囲でも遠藤氏は非常に緻密な論文を書かれる人なので、仮に後嵯峨院の「関東伺候廷臣」に対する人事方針に関して『増鏡』以外に史料があるならば、必ずここで言及されるでしょうね。
ところで建長四年(1252)、宗尊親王と一緒に関東に下り、以後は廷臣の筆頭格として『吾妻鏡』に頻出する土御門顕方という人物がいますが、『公卿補任』でこの人の経歴を辿ると、最初に登場するのが建長四年(1252)で、

参議正四位下 <土御門>源顕方
正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。十二月四日叙従三位。故内大臣定通公男(実故大納言通方卿四男)。母家女房。
〔建長三年正月廿二日補蔵人頭。元正四位下右近衛中将。〕

となっています。
『公卿補任』には土御門顕方の年齢が書かれていませんが、中院通方(1189-1239)の子に北畠雅家(1215-74)・中院通成(1222-1286)がいて、顕方はその弟なので、おそらく後深草院二条の父、中院雅忠(1228-72)と同年輩と思われます。
土御門顕方と中院雅忠の祖父は源通親(1149-1202)であり、二人は従兄弟の関係ですね。
土御門顕方は建長四年、鎌倉に行った時点では殿上人ですが、その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです。
この後も建長六年(1254)に権中納言、正嘉二年(1258)に従二位、兼右衛門督、正元二年(1260)に正二位、文応二年(1261)に中納言、弘長二年(1262)に権大納言と官職・官位とも順調に昇進しています。
そして弘長三年(1263)に権大納言を辞し、以後は散位ですが、文永三年(1266)に鎌倉を追放された宗尊親王に従って京に戻ると同年十二月五日「聴本座」とのことで、これは後嵯峨院による慰労の意味が籠められているのかもしれません。
この後、土御門顕方は文永五年(1268)十二月十七日「出家(籠居山科辺)」とのことで、廷臣としての人生を殆ど宗尊親王に捧げた感がありますが、鎌倉滞在中の昇進ぶりを見ると、確かに京都での奉公に劣ってはいないようですね。
劣っていないどころか、極官の権大納言に昇進した際には『公卿補任』にわざわざ「其身在関東」と記されており、関東にいる者を権大納言にするなんて、という周囲の羨望や嫉妬、非難の声が聞こえてきそうな雰囲気です。
こうした異例な処遇を認めたのは後嵯峨院以外に考えられませんから、『増鏡』の「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」という人事方針は確かに存在したのでしょうね。
ということで、僅か一例を見ただけですが、『増鏡』のこの記述は信頼できそうです。
おそらく遠藤氏や他の研究者も、『増鏡』の記述が実例に反していないことを確認した上で『増鏡』を引用されているのでしょうね。
さて、『増鏡』は『源氏物語』のような優雅な文体で描かれ、およそ歴史的重要性の感じられない煩瑣な儀式の描写や「愛欲エピソード」に満ち溢れている歴史物語であり、現代の歴史研究者にとっては非常に扱いづらい史料です。
厳密な史料批判の訓練を受けた研究者にとって、『増鏡』だけに依拠して歴史叙述を行なうのは落ち着かない気持ちがするはずで、おそらく多くの研究者は『増鏡』以外の確実な史料を探し求め、『増鏡』はあくまで補助的な史料として扱いたいと考えているはずです。
しかし、『吾妻鏡』が宗尊親王追放劇で終わって以降、武家社会には一定の歴史観に基づく編纂史料は存在せず、他方、公家側の日記類もいたずらに細部のみ詳しく、それも時期によって残された史料の量と質に偏りがあり、結局のところ鎌倉時代後期の歴史の流れをそれなりに分かりやすく説明してくれる史料は『増鏡』以外に存在しません。
ということで、どんなに他の史料を探し求めても入手できず、『増鏡』以外に手がかりとなる史料を得られない場合が多々あるのですが、その際に『増鏡』をどのように解釈すべきかは非常に悩ましい問題となります。
その点、例えば世間では堅実な実証的研究者と思われている森茂暁氏は、意外なことに『増鏡』の取扱いについては異様なほど大胆です。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b59444914a0703c0d05ca3e4cb2b225
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

また、兵藤裕己氏の最新刊『後醍醐天皇』(岩波新書、2018)の「第1章 後醍醐天皇の誕生」における後醍醐天皇の母に関する叙述を見ると、

-------
 後宇多天皇は、正応元年(一二八八)一一月、後宇多天皇(上皇)の第二皇子として生まれた。諱を尊治という。
 母は、談天門院の院号を贈られた五辻忠子。参議五辻忠継の娘であり、内大臣花山院師継の養女として入内した。忠子は、尊治のほかに二男一女をもうけたが、やがて亀山法皇の寵愛を受け、尊治は幼少期を法皇御所の亀山殿で過ごすことになる。
 亀山殿の地には、のちに足利尊氏によって、後醍醐天皇の鎮魂を意図して天龍寺が創建された。天龍寺は、幼少期の尊治が母(および祖父法皇)と過したゆかりの地に建立されたのだが、母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇が、尊治(親王宣下は正安四年<一三〇二>)を皇位継承者として浮上させる一つの伏線となったことは、村松剛氏による評伝にくわしい。
-------

といった具合で(p14)、兵藤氏は村松剛氏の『帝王後醍醐─「中世」の光と影』(中央公論社、1978)に全面的に依拠しているのですが、この村松著は『増鏡』(と『とはずがたり』)に全面的に依拠しています。
ということで、鎌倉後期の歴史叙述は未だに『増鏡』への依存度が極めて高いのが現状ですね。

村松剛「忠子の『恋』」
http://web.archive.org/web/20150918011501/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/muramatutakeshi.htm

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『増鏡』にしか存在しない記... | トップ | 片山杜秀氏のことなど »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『増鏡』を読み直す。(2018)」カテゴリの最新記事