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『続史愚抄』弘安八年(1285)(その1)

2020-02-29 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 2月29日(土)11時00分37秒

それでは『続史愚抄』を弘安八年(1285)から読んで行きます。
年初の恒例行事は省略しますが、1月の出来事としては21日に「新院幸石清水宮。七箇日可有御参籠」ということで、亀山院が石清水に一週間行っていますね。
2月に入ると8日に亀山院御所で「尊勝陀羅尼供養」があったと記された後、26日から「西園寺実氏室今林准后九十賀」の記事となり、これが3月2日まで続きます。
ただ、3月1日の記事の最後に、

今夜。二条局源朝臣基子〈称東方。東宮権大夫〈具守〉女。今上妾。新陽明門院官女也。無名字。後年院号時治定基子。〉降誕皇子。〈或作二日。後二条院也。〉

と、堀川具守の娘、「二条局」源基子が邦治親王(後二条天皇、1285~1308)を生んだことが短く記されています。
天皇の生母は生んだ子が天皇になったときにそれなりに処遇されることが多いのですが、基子は正安三年(1301)の後二条即位後も特に叙位等がありません。
そして、徳治三年(1308)8月に後二条天皇が亡くなった後、11月27日に、

先帝母儀源朝臣基子尼〈四十四歳。右大将〈具守〉女。依先帝崩先日落飾。法名清浄法。元為前新陽明門院官女也。因無名字。俄治定。法皇被執申云。〉有叙位〈従三位〉

ということで(p394)、四十四歳になって、しかも出家後にやっと従三位に叙されます。
「法皇被執申云」とありますが、この法皇は後宇多院ですね。
そして、翌12月2日になると、

従三位源朝臣基子尼〈先帝母儀。右大将〈具守〉女。〉有准三宮宣下及院号定。為西華門院。上卿按察大納言。〈実泰。〉已次公卿西園寺大納言〈公顕。〉已下六人参仕。奉行蔵人右衛門権佐長隆於本所〈北白川殿。〉補院司。奉行院司〈法皇院司。〉右大弁経世朝臣。

ということで、僅か一週間後に准三宮宣下、続いて院号定ですから、今までの処遇が嘘のような極端な厚遇です。
法皇院司が女院の院司を兼ねていることから明らかなように、これも後宇多院の主導によるものですね。
西華門院の処遇はいろいろ奇妙な感じがしますが、この点の検討は後で行います。

西華門院(1269~1355)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%9F%BA%E5%AD%90

さて、弘安八年に戻ると、4月22日に亀山院は再び石清水宮御幸、5月9日に還幸となります。
そして同月20日に「大宮院幸石清水社」とあり、翌21日に「石清水宮御如法経十種供養御奉納儀終。新院有還幸。大宮院亦還幸歟」とあるので、亀山院も同行していたようですね。
7月に入ると、3日に「法勝寺八講」が始まって6日に亀山院が法勝寺御幸、翌7日還幸。
ついで20日に「山門講堂供養。可為此日兼治定。而延引」、翌21日に「有延暦寺講堂供養儀。被准御斎会。【中略】有舞楽荒序。〈童舞。〉上卿吉田中納言〈経長。〉【後略】」とあります。
更に30日に「本院。新院。女院〈新陽明門院。〉幸法勝寺。於常行堂〈或作※殿〉、召山門講堂供養童舞有舞楽〈有青海波歟。垣代童有掛比巴。〉荒序等。山門僧徒多参。有如形延年興。〈頗珍事云。或作廿九日〉」とあります。
「頗珍事」とのことなので盛大な儀式であったのでしょうが、本院(後深草院)と新院(亀山院)が法勝寺において、延暦寺から召した童による童舞を一緒に観たことは両者間の極めて良好な関係を想像させます。
そして、この後、8月19日に姈子内親王の立后となります。
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