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小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)

2022-04-01 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月 1日(金)10時18分33秒

小川剛生氏の最近の業績は一応押さえておかねば、程度の軽い気持ちで国会図書館に遠隔複写を依頼していた論文、「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021年10月)が昨日届いたのですが、一読して現在の私の関心にあまりにピッタリだったので目が点になってしまいました。
この論文は、

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一、はじめに─青葉の楓の伝承
二、為相詠を書き込んだ立乗房書状
三、久米多寺の立乗房
四、称名寺歌壇との接点
五、阿仏尼と金沢称名寺
六、おわりに
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と構成されていますが、まずは問題の所在を確認するため、第一節を引用します。(p5)

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  一、はじめに─青葉の楓の伝承

 称名寺境内に立つ楓は、「青葉の楓」と呼ばれる。鎌倉時代後期の歌人、冷泉為相(一二六三~一三二八)が、称名寺で、
  いかにしてこの一本のしぐれけむ山に先立つ庭のもみぢ葉
と詠んだところ、楓は冬にも紅葉することがなくなったという伝承に因む。楓は何度か枯れて植え替えられたというが、「金沢八名木」にも数えられ、その姿は今も往時を偲ばせる。
 この伝承を最も古く記した文献は歌人堯恵の北国紀行であり、作者は文明十七年(一四八五)三月に称名寺を訪ね、くだんの楓を見て、為相の和歌を偲んでいる。【中略】
 このように「青葉の楓」の由緒は確実に中世に遡るものであるが、それでも堯恵の時点で為相没後百五十年を経ている。為相は藤原為家の三男で冷泉家の祖、母は阿仏尼である。いわゆる関東伺候廷臣として幕府将軍久明親王に仕えており、生涯の過半を鎌倉で過ごした。但し、称名寺・金沢北条氏との関係はいまのところ具体的には知られていない。【中略】
 しかし、この詠はたしかに為相の生きた時期のものであり、さらに称名寺における作であるとも言えそうであるので、ここに報告し、派生する問題を考えたい。なお、刊本『金沢文庫古文書』の引用は、「金文」として番号と共に示した。
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私にとって一番重要に思えたのは第五節の冒頭に出てくる金沢貞顕の書状(金文四九七+四九八号)ですが、その検討の前に、論文全体の結論として第六節も引用しておきます。(p10)

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   六、おわりに

 以上、「いかにして…」の詠が、たしかに為相の活動した時期の作であることを確かめ、かつ称名寺歌会で詠まれたからこそ、遠く久米多寺の僧の書状にとどめられたと推定した。続いて、これまで余り取り上げられなかった称名寺・金沢北条氏の文化圏における和歌の位置を考え、阿仏尼・冷泉為相とが二代にわたり介在していたことを示した。立乗房書状に書き込まれた和歌はやはり為相作である可能性が高く、伝承はだいたいの骨子を伝えていたというのが結論である。
 現在の金沢文庫本は仏書と漢籍に偏し、国書は乏しい。さらに金沢北条氏嫡流の顕時・貞顕・貞将には一首の詠も伝えられていない。しかし、和歌的な雰囲気が皆無であったとするのは早計である。鎌倉の武家や寺院に和歌はもはや不可欠の教養であり、そこには指導者としての専門歌人がいなくてはならなかった。実際、庶流の甘縄顕実や姻戚の長井宗秀・貞秀兄弟は熱心な歌人であり、かつ為相の高弟であった。剱阿は宗秀と最も関係が深かったから、いささか場違いにも見えた、称名寺での歌会開催もよく説明できる。さまざまな問題へと波及していくと考えられるが、まずはこの辺りで擱筆する。
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『太平記』などで武人としての印象が強い貞将はともかく、相当な教養の持ち主であった顕時を含め、「金沢北条氏嫡流の顕時・貞顕・貞将には一首の詠も伝えられていない」のは本当に意外ですね。
貞顕が和歌の世界で活躍していれば、そこでの人間関係と後深草院二条の人間関係の接点を追うことができるのですが、とにかく貞顕が一首も詠んでいないのですから手がかりがありません。
私は早歌の世界で「越州左親衛」(金沢貞顕)と「白拍子三条」(後深草院二条)が「濃厚接触者」ではないかと疑い、金沢北条氏の周辺を探って来たのですが、金沢北条氏も相当大きな存在であって、文化的にも一枚岩ではなく、早歌の関係もむしろ貞顕の兄、甘縄顕実の社会圏の問題なのかな、などといささか自信を喪失しつつあります。
なお、小川氏は「姻戚の長井宗秀・貞秀兄弟」と書かれていますが、宗秀・貞秀は親子ですね。
長井宗秀が金沢顕時と同世代、長井貞秀が金沢貞顕と同世代です。

長井宗秀(1265-1327)
長井貞秀(?-1308)

>筆綾丸さん
>たとえば、よみ人しらず、として入集しているということはないのですか。

その可能性は否定できませんが、とにかく一首も残していないのですから、仮に作歌はしていても、対外的な発表は意識的に避けていたような感じですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

歌のわかれ? 2022/03/31(木) 14:31:33
小太郎さん
「餘波袖」から判断すると、歌を詠むな、と言われてもひそかに詠んでいたような気がするのですが、たとえば、よみ人しらず、として入集しているということはないのですか。

付記
「歌のわかれ」とは中野重治の小説のタイトルで、若い頃に読んだので内容は覚えていませんが、主人公が短歌と訣別する話だったと思います。
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