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峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その2)

2021-01-14 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月14日(木)11時27分39秒

続きです。(p146以下)

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研究者の多くは、この記述を信用し、田中義成『南北朝時代史』は、「太平記によれば、尊氏、之(直義)を誅するに忍びず、窃〔ひそ〕かに毒を進めしなりと云へり」と記し、尊氏・直義について高い人物評価を与えている高柳光寿『足利尊氏』は、「二月二十六日は師直没と同日の一周忌、尊氏か師直一類が殺した可能性があり、殺害後の処分も不明、『諸家系図纂』は「尊氏殺害」と記す。『臥雲日件録』は、「直義の死後、神霊の出現があり、これを大倉明神として円福寺(直義の没した寺)に祀る、というのはこのような事情によるか」と、殺害説に傾いている。これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している。それ以後の通史叙述において、佐藤和彦『南北朝の内乱』は、「幽閉された直義は、鴆毒によって殺された」と記し、伊藤喜良『南北朝の動乱』は、「太平記によれば、鴆毒を盛られた」、村井章介『南北朝の動乱』(『日本の時代史』一〇)は、「正月尊氏は鎌倉に入って、二月には直義を毒殺した」とする。これに対して、新田一郎『太平記の時代』は「毒殺との噂が流れたようだが、尊氏の関与の有無は明らかでない」として懐疑的である。私が編集に参加した『日本史年表』(岩波書店)には、「尊氏、直義(四七)を毒殺」と断定している。おおむね、毒殺を前提にして、尊氏の関与の有無に意見が分かれている。しかし、私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている。
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いったん、ここで切ります。
「これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している」という指摘は峰岸氏の佐藤氏の対する静かな怒りを感じさせますね。
私もこの表現は、何だか陰湿な書き方だなあ、と思ったことがあります。
また、歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1995)を見ると、確かに「尊氏、直義(47)を毒殺」と断定しています。
実は私、成良親王のプチ年表を作るに際して同書を利用したばかりなのですが、確かに「毒殺」と断定していて、ちょっとびっくりしました。
峰岸氏はご自身が反対したであろう当該記述を誰が入れたのかを明確にはされていませんが、同書の「序文」には、

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 こうした方針のもとに作業は進められたが,60名に及ぶ人々が5年にわたって歩調を合せ協力することは決して容易なことではなかった.【中略】これはひとえに編集委員である吉田孝・峰岸純夫・高木昭作・宇野俊一・神田文人・加藤幸三郎・板垣雄三・西川正雄氏および執筆者諸氏の御努力と,私をたすけてまとめ役として万端の世話を引き受けて下さった吉村武彦・加藤友康氏の貢献によるものである.また岩波書店の松島秀三氏およびめんどうな編集実務の一切を引き受けて下さった井上一夫・竹内義春氏に対し,この機会にあつく御礼申し上げる.

1984年3月  歴史学研究会日本史年表編集委員会
                委員長 永原慶二
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とあるので、まあ、ここに挙げられている人の中で峰岸氏が賛成しない記述を載せることができる研究者というと、加藤友康氏では失礼ながら少し軽いので、「委員長 永原慶二」氏でしょうね。
世間的には加藤友康氏(1948年生、東京大学史料編纂所元所長、名誉教授)もけっこう偉い人でしょうが、歴史学研究会にはそれとは別の序列があり、年齢も永原氏(1922生)は峰岸氏(1932年生)より十歳上ですからね。
ということで、永原慶二氏も毒殺肯定説であると「断定」したいと思います。
さて、この後、峰岸氏は直義死去の十六年も前の史料、例の清水寺への尊氏の願文を出して来られて、それはちょっと関係ないのでは、と私などは思うのですが、一応引用しておきます。(p147以下)

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 尊氏の宗教心や尊氏と直義の兄弟愛を考える上で、建武三年(一三三六)の清水寺への願文が注目される。

  この世は、夢のごとくに候、尊氏にたう心(道心)たばせ給候て、後生たすけさせを
  はしまし候べく候、猶々とくとんせい(遁世)したく候、
  たう心(道心)たばせ給候べく候、今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさ
  せ給候べく候、今生のくわほう(果報)をば、直義にたばせ給候て、直義あんをん
  (安穏)にまもらせ給候べく候、
    建武三年八月十七日       尊氏(花押)
   清水寺

 この時点は、兵庫で新田義貞・楠木正成を撃破して京都の後醍醐天皇を追い、光明天皇を擁立した翌日のものである。本来ならばこの晴れがましい時点で、尊氏は鬱状態に陥り、道心(仏道への帰依)と隠遁を希求し、今生の果報に変えて後生の安穏を求め、今生の果報は直義に譲り、直義の安穏をも祈願するという内容になっている。一つ違いの弟直義の政治能力への信頼がつよく、直義に後事を託して引退したいという心情がにじみ出ている。その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。しかし、長年の戦陣での無理が祟って身体がぼろぼろになっており、急性肝炎を発症して皮膚が黄色になる黄疸症状を呈し急逝したのである。その突然の死に疑惑が生じ、これを利用して『太平記』の物語が構築されたと考える。直義の毒殺説ないし尊氏加害説は是正されなければいけないと思う。
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うーむ。
峰岸説にも若干の疑問を感じますが、次の投稿で書きます。
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