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「決して奇をてらったわけではない。通用の語が、歴史認識の深化を妨げると思うからである」(by 渡辺浩氏)

2019-07-13 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月13日(土)10時41分0秒

渡辺浩氏は2017年に学士院会員になられているんですね。

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 渡辺浩氏は、徳川時代・明治時代の日本の政治思想史研究において、近世社会に生きられた思想の具体的な姿を追求する立場から、従来の思想史を読み直すことを促す衝撃的な業績を次々に挙げてきました。第一に、徳川時代の儒学史の独自な展開とダイナミズムを、朱子学を学んで筆記試験に合格することによって登庸される文人官僚が中心となって支配する明国・清国及び朝鮮国と、原則として世襲の武士身分が支配する徳川日本との異質性を念頭に、綿密な実証作業を通じて説得的に解き明かしたことです。渡辺氏は、さらに、この徳川時代研究を踏まえて、徳川時代末期から明治までの西洋との接触についても、それが儒学の枠組みに深く規定されていたことを様々な角度から解明し、特に、儒学的な信念や思考枠組みを有するが故に、西洋の「文明」を高く評価し、それを受け入れようとする態度が、様々な面で存在したことを明らかにしました。その結果、「明治維新」や「文明開化」について、従来とは異なる解釈の可能性を切り開きました。第二に、日本の思想史の展開を、東アジア各地域の儒学思想などとの比較を試みつつ、捉えていることです。その視野の広さは特徴的で、同氏の研究は、英語の他、中国語・韓国語にも翻訳され、国際的な注目を集めています。

https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/2/watanabe_hiroshi.html

二年前に私が『東アジアの王権と思想』についてあれこれ書いていたときには、渡辺氏の肩書は「東京大学名誉教授」だけだったと記憶していますが、渡辺氏は2017年(平成29)12月12日に学士院会員に選定され、また、「法政大学名誉教授」の肩書も追加されたようですね。
ま、だから何なんだ、と言われても困るのですが、私が最初に読んだ渡辺氏の本は『東アジアの王権と思想』で、その「天皇」論の印象が全然良くなかったので、へぇー、そんなにエライ人だったのか、みたいな感じです。

一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b

さて、ちょっと脱線しますが、東島氏が紹介するところの「幕府」が「戦前の皇国史観の象徴のような語」だという話は些か奇異な感じがするので、『東アジアの王権と思想』の内容を確認しておきたいと思います。

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『東アジアの王権と思想 増補新装版』

儀礼という「演劇装置」が徳川支配を正統化した.儒学が体制教学であった中国・朝鮮との近似と相違を探りながら,近世から近代へと展開する政治体制の思想を剔抉する.「幕府」「天皇」など従来の日本史用語の思想性も衝き,斬新なパースぺクティブを提示.新論考「「宗教」とは何だったのか」を収録.

http://www.utp.or.jp/book/b307369.html

同書の「序 いくつかの日本史用語について」は、

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 本書では、日本語による日本史叙述において現在広く通用しているいくつかの用語を、用いていない。同じ対象が、別の語で表現されている。それらは、時に、読者の眼に奇異に映るかもしれない。しかし、決して奇をてらったわけではない。通用の語が、歴史認識の深化を妨げると思うからである。以下、そうした語の例を挙げ、それらを避ける理由を述べる。
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と始まり、ついで「幕府」に関する説明がなされています。

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一 「幕府」

 ある日本史年表は、慶長八年(一六〇三)二月の項に、「家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く」と記している。「征夷大将軍」となった、というのはいい。しかし、「幕府を開く」とは、いかなる意味だろうか。
 第一に、それが、武家が「征夷大将軍」になるとその政権は「幕府」を開設したと意識し、そう自称したという意味であるなら、周知のようにそれは事実ではない。家康も彼の後継者も、「幕府」などとは称さなかった。法度・御触書等でもその語は用いられていない。鎌倉や室町の武家政権も同様である。徳川家宣の側近、新井白石が『読史世論』冒頭で、「武家は、源頼朝幕府を開て、父子三代天下兵馬の権を司とれり。……尊氏光明院を北朝の主となして、みづから幕府を開く。」と書いたのは、極めて珍しい例である。
 第二に、「征夷大将軍」を戴く政権は、「幕府」と普通呼ばれたという意味であるなら、それも事実ではない。勿論、近衛大将の唐名として古くから「幕府」の語はあり、「柳営」「幕下」「大樹」等の語とともに、征夷大将軍やその屋敷を「幕府」と呼んだ例は、少なくとも『吾妻鏡』以来、ある。そのため、江戸時代でも、やや気取った表現として早くから用いた例がないわけではない。例えば、林羅山は徳川家康を「幕府」と呼び(『羅山林先生文集』巻第三一)、徳川宗春は、「幕府祇候の身となり、恩愛渥く蒙りし上、はからずも嫡家の正統を受継ぎ」と述べ(『温知政要』序、享保十六年)、伊藤梅宇は、「只今幕府に宮仕し玉ふ室新助公もと賀州の御儒者なり。四十二三以前、公義へ御もらひにて、只今幕府にいます。」と記し(『見聞談叢』、元文三年序)、高橋玉斎は(水戸の『大日本史』について)「宗堯公に至りて、幕府に進呈す。」と書いている(『大日本史賛藪』後叙、延享三年)。しかし、これらは稀な例外にすぎない。少なくとも寛政の頃以前の江戸時代の文書に「幕府」の語が現れるのは珍しい。明らかにそれは、当時の人々が容易に想起する名辞ではなかった。例えば尾藤二洲は、「当今事体」を漢文において如何に表現するかを論じ、江戸の政府の適切な呼称として「大朝」「府朝」「大府」「征夷府」「王府」は挙げているが、「幕府」は挙げていない(『称謂私言』、寛政十二年序)。完成された形態の大部の節用集、須原屋茂兵衛刊『大日本永代節用無尽蔵』(天保二年旧刻、嘉永二年再刻)に「幕下」「大樹」「大将軍」(また「禁中」「禁裏」)はあるが、「幕府」はない。
 近年、英語による日本史研究において Bakufu と表記する例が散見される。しかし、それは歴史的用法に忠実に見えて、実はそうではないのである。
 もっとも、歴史用語は、常に当時の用語そのままでなければならない、とはいえない。将軍を、歴史家が常に「公方様」と呼ぶ必要はないであろう。しかし、「幕府」については、おそらくはさらに、ある政治思想史的問題が伏在している。
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「ある日本史年表は、慶長八年(一六〇三)二月の項に、「家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く」と記している」に付された注(1)を見ると、「歴史学研究会編『日本史年表』(増補版、一九九三年)、一五八頁。」となっており、念のため確認してみたところ、確かにその通りの記述がありました。
細かく言うと、渡辺氏が引用された部分の後に「広橋兼勝・勧修寺光豊、武家伝奏となる」という文章もありますね。
また、『大日本永代節用無尽蔵』は以前チラッと眺めたことがあって、雑多な項目が無秩序に並び、挿絵も多くて、意外に庶民的というか、安っぽい本でした。
他の出典は未確認ですが、実際に読んでみると、渡辺氏の文章から受ける印象とは違うものがけっこうありそうな感じがしないでもありません。

『大日本永代節用無尽蔵』を読んでみた。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ff6df49b06d22756ad1f12525a77c47
渡辺浩氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c98d53b1b8c239d74840025286625cc

少し長くなったので、いったんここで切ります。

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