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「現在のように「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある」(by 渡辺浩氏)

2019-07-13 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月13日(土)22時19分30秒

ついで「ある政治思想史的問題が伏在している」具体的状況の説明となります。(p3以下)

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 現在のように「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある。寛政三年(一七九一)、藤田幽谷は「幕府、皇室を尊べば、即ち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、即ち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後、上下相ひ保ち、万邦協和す。」と主張した(「正名論」)。そして、その弟子会沢正志斎、その子藤田東湖等は、しきりに「幕府」の語を用いた。とりわけ、東湖の『弘道館記述義』(弘化四・一八四七年、再稿完成)が、江戸時代末期に、「尊王攘夷」の語とともに「幕府」という名称が流行語になる直接の原因となったと思われる。
 では、何故、後期水戸学者はこの語を用いたのだろうか。「正名論」の示すように、徳川政権があくまで京都から任命された「将軍」の政府であることを強調するためである。そして、その正統性根拠を(一般に「皇国」の自己意識が高まる中で)明確化し、体制を再強化するためである。「幕府」とはそれを意図した、正に為にする政治用語だった。水戸学者たちがしきりにこの語を用い始めた時、奇異に感じた人々もいたであろう。『弘道館記述義』が「尊王攘夷」の項で「しかるに無識の徒、或は幕府を指して「朝廷」と曰ひ、甚しきはすなはち「王」を以てこれを称す。」と非難しているような状況が、一方にあったからである。「幕府」の語は、徳川側が用いればやや謙遜した自己弁護の意味合いを持つ。そして反徳川側からすれば、当時普通の「御公儀」「公辺」等を敢えて使わず、所詮京都の権威の下にあるべきものと位置づけた、やや軽くみる意味合いを含んでいる。光格天皇が、(「関東」と言わず)「下は執柄・幕府の文武両道の補佐を以て、在位安穏なること、既に二十有余年に及べり」(即位は安永八・一七七九年)と称した(「賀茂石清水両社臨時祭御再興の宸翰御趣意書)時も、京都側の権威の向上に努めた彼の気持ちがこもっていたのかもしれない。
 そして、江戸時代末期のあの政治状況の中で、「幕府」の語はみるみる流行し、普及していった。「公儀御役人」を「幕臣」「幕吏」等と呼べば、時に不遜に、時に小気味よく響いたことであろう。やがて、「王政復古の大号令」は「自今摂関・幕府等廃絶」と宣言した。そして明治以降、学校教育の助けを得て「幕府」の語は完全に定着した。無論、それは、天皇が「日本」の歴史を通じて唯一の正統な主権者であり、徳川氏も、せいぜい天皇から「大政」を「委任」されて統治者たりえていたのだという(江戸時代の始めには無かった)歴史像と結合していた。
 このような意味で、「幕府」とは皇国史観の一象徴にほかならない。
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「江戸時代末期のあの政治状況の中で、「幕府」の語はみるみる流行し、普及していった」に付された注(15)には、

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(15) 三谷博氏は、その著『明治維新とナショナリズム─幕末の外交と政治変動』(山川出版社、一九九七年)において、「日本の近世国家」を論じ終えて日米和親条約以降の政治史をたどり始める時点で、次のような示唆的な註を付している。「以下では、徳川「公儀」に替えて、「幕府」という名を用いる。それは、この時期に「朝廷」が京都の天皇政府の独占的呼称となり、これに対応して徳川政権を「幕府」と呼び、「朝廷」の下位に立つ「覇府」という意味を託す習慣ができたからである。」(三四九頁)。
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とあり、渡辺氏の認識は学界で孤立した特異な見解でもなさそうですね。
さて、以上で渡辺氏の問題意識は理解できましたが、では学術用語として「幕府」を用いると具体的にどのような弊害があるのか、が次に問題となり、そして更に最大の難問として、「幕府」の使用を止めた場合、それに代替すべき表現は何か、という問題が出てきます。
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