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「王政復古の政治的意味は、……天皇を代行する覇者を排斥すること」(by 三谷太一郎氏)

2019-07-18 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月18日(木)11時10分16秒

既に引用した部分と重複しますが、東島誠氏は三谷太一郎氏(東京大学名誉教授・学士院会員、日本政治外交史)の見解にも言及されています。

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 ただし、ひとたび中世史から一歩外に出れば、渡辺浩は、「幕府」とは、王道を覇権の上に位置付ける後期水戸学の尊王思想の中で勃興した、戦前の皇国史観の象徴のような語なのだから、学術用語として用いるべきでない、と提言しているし、また三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きを「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した。
 つまり、本来「幕府」の語は、佐藤学説に最もそぐわない語ではなかったのか。これは、東国国家の朝廷に対する独立性を徹底的に重視し、執権政治の合議制のなかに、専制、ひいては天皇制を相対化する可能性を見出そうとする佐藤史学にとって、誠に不都合な話であろう。かりに「幕府」を佐藤が定義した通り、史料概念ではなく分析概念として用いるにせよ、史料概念の「幕府」が皇国史観の色のついた言葉であるならば、そもそも分析概念として同じ記号表現を用いる必要など、一切ない、ということになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70bc57994e17dc4477d1670b229c9396

そして、「三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように……「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した」に付された注(13)を見ると、

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(13) 近著では、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書、二〇一七年)
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となっています。
私も一応、同書を既に読んでいて、同書には渡辺氏のように「幕府」をNGワードとしたり、「幕府的存在」や「覇府」といった表現の使用自体に懸念を示されているような箇所はなかったはずだな、とは思いましたが、でもまあ、念のため改めて同書を最初から確認してみました。
東島氏が言及されているのはおそらく次の部分ですね。(「第1章 なぜ日本に政党政治が成立したか」、p67以下)

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幕府排斥論と権力分立制

議会制は既にみたように、維新革命の所産でした。維新革命の理念は、一つは王政復古です。王政復古の政治的意味は、諸侯の旗頭であって天子の政をとる者、つまり天皇を代行する覇者を排斥することでした。また、覇者の組織・機構であり、覇者の拠点となるのが覇府ですが、そうした覇府を排斥することを意味しました。いいかえると、王政復古というのは幕府的存在を排除することを意味したわけです。
 そして、幕府的存在を排除するために最も有効なものとして考えられたのが、議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす天皇大権のメダルの裏側であったのです。つまり、明治憲法が想定した権力分立制というのは、幕府的存在の出現を防止することを目的とし、そのための制度的装置として王政復古の理念に適合すると考えられたのです。権力分立制の下では、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえません。要するにかつての幕府のような覇府たり得ない。このことが、明治憲法における権力分立制の政治的な意味であったのです。
 憲法起草責任者であった伊藤博文は特に議会について、議会こそまさに覇府であってはならないという点を強調しました。「王政復古は所謂統治大権の復古なり。吾等は信ず、統治の大権、覇者に在る者を復し、直に之を衆民に附与して皇室は依然其統治権を失うこと、覇府存在の時の如くせんと云ふが如きは、日本臣民の心を得たるものにあらず。況んや我国体に符合するものにあらず」というふうに、伊藤博文は述べたわけです。
 この伊藤の覇府排斥論というものは、議会だけでなくて他の国家機関にも共通に適用されなければならないものでした。それは当然、軍部についても例外ではありません。要するに「統帥権の独立」というのは「司法権の独立」と同じように、あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。したがって、それは軍事政権というようなものが出現することを正当化するイデオロギーではありえなかったわけです。太平洋戦争中、東條内閣が東條幕府という名によって批判された所以はそこにありました。また、大政翼賛会が幕府的存在(あるいはソ連国家におけるボルシェヴィキに相当する組織)として当時の貴族院などにおいて指弾されたのも、はやり権力分立制の原則にそれが反すると考えられたからです。
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正確を期すためにかなり長めに引用しましたが、三谷氏は明治憲法下において「幕府排斥論」、すなわち「幕府的存在」や「覇府」、あるいは「軍事政権というようなもの」の出現を許さない、という主張があったことを縷々説明されてはいても、「幕府的存在」や「覇府」といった表現自体を忌避するような態度は一切示されていません。
また、「幕藩体制」といった表現はどしどし用いられているので、三谷氏の見解には渡辺氏の「幕府」論の影響は全くありません。
ということで、東島氏の、

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三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きを「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した。
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という指摘それ自体は別に間違いではないでしょうが、なぜこれが渡辺説の後に置かれているのか、が分かりません。
そして、これが、直ぐ後の「つまり、本来「幕府」の語は、佐藤学説に最もそぐわない語ではなかったのか」という東島氏の意見とどのように結びつくのかも分りません。
私に唯一可能な説明は、東島氏には論理的に思考する能力、そして思考の結果を文章に表現する能力のいずれか、あるいは両方に何らかの欠陥があるのではなかろうか、というくらいですね。

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