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渡辺浩『東アジアの王権と思想』に安易に依拠してよいのか。

2019-07-12 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月12日(金)11時02分21秒

ま、いきなり「盟友」に向かうのではなく、最初の方から少しずつ読んで行きたいと思います。
まずは「幕府」呼称についてですね。(p29)

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 目下、「幕府」論、それも室町幕府論が活況を呈している。それどころか近年は、六波羅幕府(髙橋昌明)、福原幕府(本郷和人)、奥州幕府構想(入間田宣夫)、さらには安土幕府(藤田達生)というように、新奇な幕府呼称も乱立されており、「幕府」論は、いままさに百花繚乱の春である。
 だとすれば、この時点で、「幕府」とは何か、という根本問題について、一度立ち止まって考えておく必要があるのではないだろうか。
 佐藤進一は一九四九年、戦後歴史学の重要な画期となる「幕府論」を書き起こすにあたって、「将軍家のおはします所を幕府」とする和学講談所の『武家名目抄』や、鎌倉幕府の根本史料たる『吾妻鏡』本文中の「将軍の御居所を幕府と称す」の用例ほかを挙げながら、「このような語源的解釈ないしは当時の用例における語義のせんさくが、今日われわれの取り扱おうとする問題において、果してどれほどの寄与をなし得るか」ということに強く注意を喚起し、当時の用例、史料概念としての「幕府」と「無関係」に「幕府」の語を用いることを宣言した。分析概念としての「幕府」を「武士と呼ばれる政権の主体─政府」(軍政府、武権政府)ないし「国家的存在」と定義づけ、当時の用例が鎌倉殿や室町殿の在所という「具体物」であるのに対し、分析概念としての「幕府」は「抽象的な歴史的存在」として取り扱う、としたのである。これ自体はヴェーバーの言う〈価値自由〉な姿勢の表明であって、問題の拗れる余地などない。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/660/660PDF/higashijima.pdf

「幕府」の乱立については私も奇妙な現象だなと思っていて、その発端となった高橋昌明氏と上横手雅敬氏の論争について、少し検討したことがあります。
高橋氏は「幕府」概念を柔軟化して「皇帝や王から軍事の大権を委ねられ、官衙を開き一般行政にも参与、自ら幕僚をリクルートするなどを共通項とする歴史的実体」とされる訳ですが、あまり生産的でない提案のように感じます。

「幕府」概念の柔軟化
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21f66aaffd818fa5e2f024fd13559d28
幕府の水浸し
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8852f32f1e433c6b823ccb57919193d7

さて、この後、東島氏は学術概念として「幕府」を使うべきではないという東大名誉教授・渡辺浩氏の提案を肯定的に紹介します。

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 ただし、ひとたび中世史から一歩外に出れば、渡辺浩は、「幕府」とは、王道を覇権の上に位置付ける後期水戸学の尊王思想の中で勃興した、戦前の皇国史観の象徴のような語なのだから、学術用語として用いるべきでない、と提言しているし、また三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きを「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した。
 つまり、本来「幕府」の語は、佐藤学説に最もそぐわない語ではなかったのか。これは、東国国家の朝廷に対する独立性を徹底的に重視し、執権政治の合議制のなかに、専制、ひいては天皇制を相対化する可能性を見出そうとする佐藤史学にとって、誠に不都合な話であろう。かりに「幕府」を佐藤が定義した通り、史料概念ではなく分析概念として用いるにせよ、史料概念の「幕府」が皇国史観の色のついた言葉であるならば、そもそも分析概念として同じ記号表現を用いる必要など、一切ない、ということになる。
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注(12)には「渡辺浩『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、一九九七年)」とありますが、この本は2016年に「増補新装版」が出ていて、追加された「補論 「宗教」とは何だったのか─明治前記の日本人にとって─」は非常に優れた論文ですね。
ただ、私は「幕府」論を含む「序 いくつかの日本史用語」についてはあまり感心できなくて、特に「天皇」についての、

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 十三世紀初期から十八世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。順徳天皇(在位 承元四・一二一〇年ー承久三・一二二一年)以来、天保十一年(一八四〇)に光格天皇(在位 安永八・一七七九年ー文化十四・一八一七年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は、生前にも死後にも正式には用いられなかったからである。彼等は、在位中は「禁裏(様)」「禁中(様)」「天子(様)」「当今」「主上」等と、退位後は「仙洞」「新院」「本院」等と、そして、没後は例えば「後水尾院」「桜町院」「桃園院」と呼ばれた。前掲『大日本永代節用無尽蔵』(嘉永二年再刻)の「本朝年代要覧」も、光格・仁孝以前は(古代とそれ以降の順徳等少数の「天皇」を除き)、「何々院」と忠実に記載している。江戸時代人は、「後水尾天皇」などとは、言わなかったのである。
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という叙述(1997年初版、p7)は、東大名誉教授・藤田覚氏の勘違いの上に渡辺氏独自の複数の勘違いを重ねた勘違いの詰め合わせだと思っています。

一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b
東京大学名誉教授・渡辺浩氏の勘違い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/722bac4b55bda795aaf50e39e5765f9d

「天皇」論で疲れ果ててしまった私は「幕府」論の方はきちんと検討していないのですが、ざっと読んだ限りでは、正直、それほど感心するような内容でもないと思います。
多方面に攻撃的な東島氏にしては、渡辺浩氏に対してはずいぶん甘いですね。

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