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峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)

2021-01-13 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月13日(水)22時46分45秒

前回投稿は峰岸純夫氏の『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、2009)を確認しないで書いてしまったのですが、同書には直義毒殺エピソードに関して五ページ以上もの分量の詳細な記述があり、もちろん成良親王にも触れていたので、ちょっとまずい書き方でした。
ただ、前回投稿を修正するよりは、峰岸説を正確に紹介した方が参考になりそうなので、少し長くなりますが同書を引用したいと思います。
参考文献を見ても峰岸氏は『太平記』のどの本を採用しているのか明記されていませんが、明らかに流布本、具体的には『日本古典文学大系35 太平記 三』(岩波書店、1962)からの引用ですね。
そして、私が前々回投稿で引用した西源院本と比較すると、流布本にはかなりの増補があります。
この点に留意しつつ、峰岸氏の見解を紹介します。(p143以下)

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『太平記』にみる尊氏・直義

 『太平記』の構想は、護良親王以下非業な最期を遂げた人々の怨霊が足利方の人びとに取り付いて、対立関係を起さして高師直や足利直義が滅亡するという因果応報を説く一面を持つものであったから、直義の死は格好の材料となり、次のように記している(『太平記』巻三十)。
   かかりし後は、(薩埵山合戦で敗れ、降人となって鎌倉に赴く)高倉殿に付き従ひたて
  まつる侍の一人も無し。籠のごとくなる屋形の荒れて久しきに、警護の武士にすゑら
  れ、事に触れたる悲しみ耳に満ちて心を傷ましめければ、今は憂き世の中にながらへ
  ても、よしや命も何にかはせんと思ふべき。わが身さへ用無き物に歎きたまひけるが、
  いく程無くその年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽ち死去したまひけり。にはかに
  黄疸といふ病に犯され、はかなく成らせたまひけりと、外には披露ありけれども、
  まことには鴆毒のゆゑに、逝去したまひけるとぞささやきける。去々年の秋は師直、
  上杉を亡ぼし、去年の春は禅門、師直を誅せられ、今年の春は禅門また怨敵のために
  毒を呑みて失たまひけるこそ哀しけれ。「三過門間の老病死、一弾指頃去来今」とも、
  かやうの事をや申すべき。因果歴然の理は、今に始めざる事なれども、三年の中に日
  を替へず、酬ひけるこそ不思議なれ。
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途中ですが、ここでいったん切ります。
ここまでは西源院本と同一内容ですが、この後、流布本には次のような文章が付加されます。

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   さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存じたまひしが、かやうに自滅
  したまふ事、いかなる罪の報ひとぞ案ずれば、この禅門の申さるるによって、将軍鎌
  倉にて偽りて一紙の告文を残されし故にその御罰にて、御兄弟の仲も悪しく成たまひ
  て、つひに失せたまふか。また、大塔宮を殺したてまつり、将軍の宮(成良親王)を
  毒害したまふ事、この人の御わざなれば、その御憤り深くして、かくのごとく亡びた
  まふか。「災患本種無し、悪事を以つて種となす」といへり。まことなるかな、武勇
  の家に生れ、弓箭を専らにすとも、慈悲を先とし業報を恐るべし。わが威勢のある時
  は、冥の照覧をも憚らず、人の辛苦をも痛まず、思ふ様に振舞ひぬれば、楽しみ尽き
  て悲しみ来たり、われと身を責むる事、哀れに愚かなる事どもなり。
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「この禅門の申さるるによって、将軍鎌倉にて偽りて一紙の告文を残されし故にその御罰にて」云々はちょっと理解しにくいのですが、この点を含めて、峰岸氏は次のように解説されています。(p145以下)

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 観応三年(一三五二)正月、薩埵山合戦で敗北し、鎌倉に連行され囚われ人となった高倉殿(直義)は、落魄した身の不運を嘆いているうちに、にわかに黄疸(急性肝炎か)となって死亡したという。外に対してはそのように報道しているが、実は、と言って直義派と師直派の殺戮の連鎖の末に、「怨敵」(尊氏か師直派か)による鴆毒による殺害とのうわさが立ったとまことしやかに記し、『太平記』得意の因果応報説を展開する。すなわち、禅門(直義)は、政道に心がけ仁義を重んずる人物と一応評価しつつも、その自滅の原因の二点を罪の報いとしてあげている。
 ① 延元元年(一三三六)十一月、直義の策謀によって、尊氏は後醍醐天皇に告文(起
  請文)を捧げて天皇の京都還幸を要請・実現したが、その偽りの罪によって兄弟仲
  も悪くなり死去することになった。
 ② 大塔宮護良親王を殺害、将軍の宮成良親王を毒害したという。
 しかし、①については、直義の関与は明白でない。鎌倉で、というのも正確ではなく、このとき尊氏は京都にいた。あるいは、鎌倉で新田義貞ら追討軍を迎え撃つとき、鬱病で出陣しない尊氏を直義が天皇の誅罰綸旨を偽造して尊氏の覚悟を決めさせて出陣させた記述との混乱があるようである。ともかく罪の報いで毒害されたということでストーリーを完結させているのである。これは、『諸家系図纂』に尊氏の殺害を記し、『系図纂要』には「中毒薨」と記される以外、他の史料にはまったくない記述であり、『太平記』がつくりだしたフィクションと言ってよいだろう。その構想からくるところの記述なので、突然死や師直殺害との月日の一致などを説明するのに都合がよい。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
『太平記』以外に尊氏による直義殺害を記した史料は『諸家系図纂』と『系図纂要』だけとのことですが、いずれも近世の著作ですから『太平記』の影響を受けているはずで、独自の史料的価値はないですね。
また、流布本が「大塔宮を殺したてまつり、将軍の宮を毒害したまふ事」とし、恒良親王の名前を出さない点には注意が必要と思われます。
この後、峰岸氏は田中義成以下の多数の研究者の見解を批判的に紹介しますが、少し長くなったので次の投稿で引用します。
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