投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 4日(火)10時38分54秒
経済史を研究している学者には経済学部出身と文学部出身の二つのグループがあって、数学が得意そうなのが前者、ダメそうなのが後者という印象があったのですが、中林真幸氏は意外なことに後者(東大文学部国史学科卒)ですね。
中林真幸(1969生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9E%97%E7%9C%9F%E5%B9%B8
近代紡績業研究で有名な高村直助氏(東大名誉教授)も後者ですが、高村氏の『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(日本経済評論社、2015)を読んでみたところ、けっこう面白い読みものでした。
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生い立ちから学生時代、大学院・東大社研・横浜国立大学を経て、東大文学部時代、横浜とフェリス女学院時代へと至る軌跡を、多くの出会いなど知られざる話も交えて語る。
目次
一 生い立ちから学生時代まで
二 大学院・東大社研・横浜国大
三 東大文学部時代
四 横浜とフェリス
http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2396
直助というお名前は学者には些か珍しい感じがしますが、大阪で「和装小物と風呂敷の卸」をしていた父親の「奉公人時代の名前」だそうですね。
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ついでに言っておきますと、私の直助という名前は、父親の奉公人時代の名前なのです。山本有三の『路傍の石』の主人公吾一は、丁稚奉公をした時、最初は吾吉でしょう。親父は本名は武ですが「直」という字をもらって直吉、手代になって直七、番頭としては直助となったのです。だから誰かに跡を継がせたいと思っていたのですが、一方では四柱推命に凝っていて、姓名判断ですね。生年月日との相性が、上の兄三人はみんな合わなくて、私になってようやく合った。だから、跡継ぎを期待していたらしいのです。
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とのことで(p5)、出世魚みたいに名前が変って行くというは商家ならではの面白い習慣ですね。
商売人に学問は要らないというのが常識だった時代、父親には特別な学歴はなかったそうですが、子供の教育には熱心だったようで、一番上の姉は神戸女学院、長男が京大文学部哲学科、三男は京大農学部、本人が東大文学部、そして妹が女子栄養短期大学だそうです。
二男だけ「もともと大学に行く気がなくて、山を見たかったということで信州大学を受けに松本に行って、白紙で答案を出して」(p7)帰ってきて、そのまま商売の道に入ったとか。
また、「三番目の兄は、京大の農学部へ行ったけれども、これは山岳部と言った方がいいほど山に凝って」、「桑原武夫先生についてヒマラヤへ行くなどしていた」のだそうです。
京都大学学士山岳会サイトを見ると、「京大学士山岳会とカラコラム・クラブにより構成された、日本パキスタン合同サルトロ・カンリ遠征隊が1962年7月24日に初登頂に成功した」というサルトロ・カンリ(7,742m)の初登頂者三人の中に高村泰雄という人がいるので、この人でしょうね。
https://www.aack.info/ja/archive/
大阪の裕福な商家に育ったにもかかわらず、直助氏は1956年秋、共産党に入ったそうですが、まあ、当時は「文学部だけで共産党在籍者が一〇〇人以上いる」(p29)時代だった訳ですね。
「東大学生細胞は、文教地区委員会に属している。細胞委員会、リーディングコミッティー(LC)が指導する。十二、三人いて、私もその一人」(p31)だったにも拘らず、持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして警察には一度も逮捕されなかったそうです。
共産党の方は58年、「東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離」してしまったときに、名指しで除名はされなかったものの、「「党章」制定に伴う新たな党員証を交付されなかっただけ」(p32)で、離党したそうですね。
ちなみに「大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た」そうですが、これはお茶の水女子大学名誉教授の大口勇次郎氏ですね。
共産党を離れた後も政治活動は多少やっていて、国史学科の二年下の樺美智子氏と一緒にデモに行ったこともあったそうです。
ま、そんな高村氏が、東大社会科学研究所・横浜国立大学を経て、1971年、東大紛争で荒れ果てた母校に「文学部国史学科助教授」として戻ってきた後は、立場が一転して不良左翼学生を取り締まる側になったので、林健太郎や堀米庸三には「君も、大分大人しくなったらしいね」とからかわれたとか。(p79)
経済史を研究している学者には経済学部出身と文学部出身の二つのグループがあって、数学が得意そうなのが前者、ダメそうなのが後者という印象があったのですが、中林真幸氏は意外なことに後者(東大文学部国史学科卒)ですね。
中林真幸(1969生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9E%97%E7%9C%9F%E5%B9%B8
近代紡績業研究で有名な高村直助氏(東大名誉教授)も後者ですが、高村氏の『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(日本経済評論社、2015)を読んでみたところ、けっこう面白い読みものでした。
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生い立ちから学生時代、大学院・東大社研・横浜国立大学を経て、東大文学部時代、横浜とフェリス女学院時代へと至る軌跡を、多くの出会いなど知られざる話も交えて語る。
目次
一 生い立ちから学生時代まで
二 大学院・東大社研・横浜国大
三 東大文学部時代
四 横浜とフェリス
http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2396
直助というお名前は学者には些か珍しい感じがしますが、大阪で「和装小物と風呂敷の卸」をしていた父親の「奉公人時代の名前」だそうですね。
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ついでに言っておきますと、私の直助という名前は、父親の奉公人時代の名前なのです。山本有三の『路傍の石』の主人公吾一は、丁稚奉公をした時、最初は吾吉でしょう。親父は本名は武ですが「直」という字をもらって直吉、手代になって直七、番頭としては直助となったのです。だから誰かに跡を継がせたいと思っていたのですが、一方では四柱推命に凝っていて、姓名判断ですね。生年月日との相性が、上の兄三人はみんな合わなくて、私になってようやく合った。だから、跡継ぎを期待していたらしいのです。
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とのことで(p5)、出世魚みたいに名前が変って行くというは商家ならではの面白い習慣ですね。
商売人に学問は要らないというのが常識だった時代、父親には特別な学歴はなかったそうですが、子供の教育には熱心だったようで、一番上の姉は神戸女学院、長男が京大文学部哲学科、三男は京大農学部、本人が東大文学部、そして妹が女子栄養短期大学だそうです。
二男だけ「もともと大学に行く気がなくて、山を見たかったということで信州大学を受けに松本に行って、白紙で答案を出して」(p7)帰ってきて、そのまま商売の道に入ったとか。
また、「三番目の兄は、京大の農学部へ行ったけれども、これは山岳部と言った方がいいほど山に凝って」、「桑原武夫先生についてヒマラヤへ行くなどしていた」のだそうです。
京都大学学士山岳会サイトを見ると、「京大学士山岳会とカラコラム・クラブにより構成された、日本パキスタン合同サルトロ・カンリ遠征隊が1962年7月24日に初登頂に成功した」というサルトロ・カンリ(7,742m)の初登頂者三人の中に高村泰雄という人がいるので、この人でしょうね。
https://www.aack.info/ja/archive/
大阪の裕福な商家に育ったにもかかわらず、直助氏は1956年秋、共産党に入ったそうですが、まあ、当時は「文学部だけで共産党在籍者が一〇〇人以上いる」(p29)時代だった訳ですね。
「東大学生細胞は、文教地区委員会に属している。細胞委員会、リーディングコミッティー(LC)が指導する。十二、三人いて、私もその一人」(p31)だったにも拘らず、持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして警察には一度も逮捕されなかったそうです。
共産党の方は58年、「東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離」してしまったときに、名指しで除名はされなかったものの、「「党章」制定に伴う新たな党員証を交付されなかっただけ」(p32)で、離党したそうですね。
ちなみに「大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た」そうですが、これはお茶の水女子大学名誉教授の大口勇次郎氏ですね。
共産党を離れた後も政治活動は多少やっていて、国史学科の二年下の樺美智子氏と一緒にデモに行ったこともあったそうです。
ま、そんな高村氏が、東大社会科学研究所・横浜国立大学を経て、1971年、東大紛争で荒れ果てた母校に「文学部国史学科助教授」として戻ってきた後は、立場が一転して不良左翼学生を取り締まる側になったので、林健太郎や堀米庸三には「君も、大分大人しくなったらしいね」とからかわれたとか。(p79)
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