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「栄光の蛸のやうな死」の謎

2018-12-06 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 6日(木)23時11分14秒

>筆綾丸さん
『絹と明察』(講談社、1964)を読み始めたのですが、今は頭が完全に経済史、しかもマルクス経済学にもとづく思弁的な経済史ではなく、にわか仕込みとはいえ、数量データを重視するサバサバとした経済史の勉強モードなので、並行して三島由紀夫の華麗な文章を読むのはいささかつらいですね。

ツイッターで「絹と明察」を検索したら、

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「意識が高い」という言い回しは最近出来たものだと思っていたら、三島の『絹と明察』(64年)で使われていた。
https://twitter.com/FumitakeKajio/status/985802861559693312

というツイートを見つけたので、以前、丸ちゃんに「意識高い系」とか言われたことを思い出して笑ってしまいました。

丸島和洋氏のご意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
書評:丸島和洋著『戦国大名の「外交」』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ac71f315a069919f1402e7c924d889d

「意識が高い」を探してみたところ、p121に、

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 駒沢紡績の男子寮には、さすがに女子寮のやうな、手紙の検閲はなかつた。もしそんなことをすれば、「意識の高い」男子工員を、無用に刺戟することになるからである。
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とあり、左翼的な思想の持ち主を揶揄する表現だったようですね。
また、「松岡正剛の千夜千冊」の「意表篇1022夜」には、

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 三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間のあひだ、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。
 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。
https://1000ya.isis.ne.jp/1022.html

とありますが、「栄光の蛸のやうな死」とは何なのか、三島を殆ど読んでいない私には謎の表現です。
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