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「日本農民のどえらい貧困化」(by クーシネン)

2018-12-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月26日(水)12時12分32秒

12月15日の投稿で書いたクーシネン発言ですが、『現代史資料(14)』(山辺健太郎解説、みすず書房、1964)を見たところ、56番目に、「日本帝国主義と日本××〔革命〕の性質─一九三二年三月二日のコミンテルン執行委員会常任委員会会議における同志クーシネンの報告から」が載っていて(p582以下)、その中に中村政則が引用する「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」という表現が出てきますね。

「クーシネン発言の出典について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff6401da35561176f60af2c5a7ae50da

このクーシネン報告は上下二段組みで12ページほどの分量がありますが、最初の方、2ページ目に当該表現が出てきます。
文脈を見るために少し前から紹介すると、

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 日本は自国産の棉花をもたない。そしてこのことは、紡績業が最も重要な産業部門であるところの国にとつて特に痛感される。
 化学産業の原料の欠如が特に強く感じられてゐる。
 日本資本主義の弱点は、原料資源が全く不十分なことである。これが、日本資本が領土拡張に努力する動機の一つである。
 だがこのことは、その動機の一つに過ぎない。国内市場の狭隘さが遥かに重要な意義をもつてゐる。国内市場の微弱な受容力は、それとしては、一方において労働者の、他方において農民の異常に高度な搾取に原因する。日本では労働力の信じられないやうな略奪的搾取がおこなはれてゐる。こゝでは労働者の生活水準は植民地におけると同様に低い。若干の労働者層の状態、特に厖大な数の勤労婦人および勤労青年の状態は言葉の完全な意味において奴隷性を想起させる。
 他方において我々は、日本における全く強力な封建制の残存物によつて条件づけられた不断の限界を知らない農民の搾取を見る。日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である。
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ということで(p583)、「日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である」ですから、「つ」と「っ」の違い以外は全く中村と同一の表現です。
ついでにもう少し引用してみると、

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この植民地の搾取は二種の方法によつて行はれてゐる。第一に、農民への工業製品販売者として、また農民から農産物の購買者として立ち現はれてゐるところの資本主義トラストによつて実施されてゐる価格政策によつて、第二に高い租税および農村の到る処を支配してゐる最も無慈悲な高利貸によつて。搾取のこの資本主義的方法は、それと前資本主義的搾取形態との結合によつて、より一層強められてゐる。大地主も矢張り、農民を非常に激しく破壊させてゐる。これは小作料の形態で行はれてゐる。小作料は、農民搾取の半封建的形態である。多くの場合小作料は収穫の半分、またそれ以上にさへ達してゐる。小作料は、自分自身は農業に従事しないで全く寄生的存在をなしてゐるところの大地主によつて年々直接農民から取上げられてゐる。日本農民のどえらい貧困化は、このことによるのである。日本の工業が発展しても、それは農民の窮乏化した層を生産過程へ引入れる何等の可能性をも与へてゐない。農民の窮乏化はさらに益々進行してゐる。
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といった具合で、「日本農民のどえらい貧困化」という表現は、妙な感じで俗語が紛れ込んでいて、ちょっと笑えますね。
ま、それはともかく、1935年生まれで、『労働者と農民』を執筆した1976年当時、41歳で一橋大学経済学部助教授だった中村にとって、こうしたクーシネンの理解が日本資本主義の本質を「喝破」するものと思われ、中村自身の「まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである」という認識の基礎になっていた訳ですね。
なお、クーシネン報告の最後の方で、クーシネンは、

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 さて革命の推進力─農民とプロレタリアートについて若干述べよう。
 日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり、かつこゝに支配してゐるところの高利貸群の搾取の対象である。約四万の大地主は完全に、農民に寄生してゐる。だがすでにこゝにもまたはつきりとして分化の第一歩、その最初の萌芽が認められる。しかしこの発展については我々は今の所まだあまりにも貧弱な知識しかもつてゐない。
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などと言っていて(p592)、この点については「資料解説」を担当した山辺健太郎も、

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 ところが、『政治テーゼ草案』を批判したコミンテルンにも、日本社会のおくれた面だけを強調する傾向のあったことも事実である。たとえば、クーシネンの報告(五六)で「日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり……」といっているが、賦役の条件に生活しているという状態にはなかった。
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という具合に(xix)、些か当惑、というか、呆れている感じですね。
さて、クーシネン報告の内容はともかくとして、中村がそれを何で見たのか、という我ながらどーでもいいだろ的な感じがしないでもない疑問についてですが、この点については『現代史資料(14)』月報に出ている犬丸義一「これまでの日本共産党テーゼの資料集と研究の概観」が参考になります。
犬丸によれば、1947年11月7日、日本共産党は創立二五周年記念事業のひとつとして党史資料委員会編「日本問題に関する方針書・決議集」を「非売品」として刊行したそうで、その中にクーシネン報告も含まれていますね。(p4)
そして1954年、

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前述の党史資料委員会編「コミンテルン日本問題にかんする方針書・決議集」が改訳、公刊された。(五月書房)内容は、前述のものと同一であったが、商業出版社から市販されたので普及され、版を重ねた。
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のだそうで(p6)、おそらく既に革命青年であったはずの中村も五月書房版を入手し、熟読玩味したのでしょうね。
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