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「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」(by コミンテルン常任委員クーシネン)

2018-12-13 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月13日(木)11時37分22秒

前回投稿の末尾に書いたように、石原修の「大正二年十月国家医学会例会席上に於ける講演 女工と結核」には、

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第三号表は或る一定の時期を限つて、そこで市勢調査みたいなことをやりました、其結果が生糸は事情が違ひまするが、紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ、勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります、【後略】
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とあり(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、光生館、1970、p181)、石原は明確に生糸と紡績・織物を区別していますが、中村は「生糸は事情が違ひまするが」を削除していますね。
実際、『あゝ野麦峠』を通読しただけでも、多くの女工が何年も続けて製糸工場に出ており、一年で止めるのがむしろ例外です。
ま、それはともかく、『労働者と農民』の引用をもう少し続けます。(p172以下)

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 ところで、昭和四五年の夏、私は新潟県北魚沼郡堀之内町で出稼ぎ女工の調査をおこなったことがある。最盛期の大正末期、堀之内町からは七〇〇人ちかい娘が県外に働きにでていたのである。この調査先で、当時八〇歳の、もと堀之内町長森山政吉をたずねた。大正五年(一九一六)、かれはこの一〇年後に堀之内町に合併された田川入村の役場の書記となり、大正九年に北魚沼郡中部女工保護組合をつくって女工保護に立ち上がった。

昔はひどいものでした。戸籍を見るたびに、一六歳から二二、三歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでゆくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これでは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。

 女工保護組合についてはのちの章で述べることにするが、まさに結核と私生児の発生は、窮乏農村の荒廃ぶりをいっそうはげしくした。かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破したが、まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである。

今から十年前に当つて奉天の戦争(日露戦争)で戦死者七八千負傷者五万人位を出して居ると思ひますが、(中略)工業の為に犠牲になつた所の女工の数は、奉天戦争の死者或は傷者と相当するものではないかと思ひます。謂はゆる矛を執つて敵に向つて戦をして死んだ者は敬意を以て迎へられ、国家から何とか色々の恩典に報いられ、国民より名誉の戦死者とされ、又負傷者となつたものは充分の手当てを受け、名誉の負傷者として報いられ迎へられます。それにかゝはらず、平和の戦争の為に戦死したものは、国民は何を以て之に報いて居るかといふことは、私には分りませぬ。涙深いことを申すやうでございますが、女工の運命は実に悲惨なものでございます。矢張り彼等女工と雖も、我々の大事な同胞の一つであらうと思ひます。

 石原修は、さきの講演の末尾でこのように述べた。工場法の完全実施は、緊急の問題になっていたのである。
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とのことですが、再び石原修の講演録を確認すると、中村が引用する部分の直前に、

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 それから十八号十九号表(前掲)を御覧願ひます、紡績の結核に密接の関係があるといふことはそれで御分りであらうと思ひますが、どの表でも紡績は結核が多い、連続徹夜業をやつて居るものは紡績に限ります、どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬと思ひます。先刻申しました五千人といふものは工業の戦争の為に犠牲になりましたが、此衝に当りました五千人の戦死者の外に二万五千人といふ工業をやつた為に余計重病人が出来たといふことを申してよからうと思ひます。さうすると今から十年前に当つて奉天の戦争で………
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とあって(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、p196)、石原は「紡績の結核に密接の関係があるといふこと」「どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬ」という具合に、結核に関しては明確に製糸業と紡績業を区別していますが、中村の引用の仕方ではそれは分かりにくいですね。
煩雑になるので石原の作成した表は紹介しませんが、結核との関係では製糸工場は紡績工場より良好な労働環境であることは数字の上からも明らかです。
ま、製糸工場の場合、石原の強調するように深夜業が一切ない上に工場内に粉塵が舞わないので、この結論は常識にもかなうと思われます。
なお、中村が<かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破した>とオットー・クーシネンを高く評価している点は、その妻アイノ・クーシネンの自伝 『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)を読んだことのある私にとってはなかなか味わい深いものがあります。
コミンテルンで働いていたアイノ・クーシネンは、夫が最高位の共産党幹部であったにも拘らず逮捕・投獄されてしまうのですが、オットー・クーシネンは、妻を救おうとすれば自身がスターリンに粛清される可能性が高かった時期が過ぎても妻を助けようとせず放置した人物で、個人的にはあまり好感を持てません。
ま、「講座派」の人たちにはいろいろ奇妙なところがあるので、別に驚きはしませんが。

オットー・クーシネン(1881-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3
アイノ・クーシネン(1886-1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9d4ba65a710347e3260c84b339e75b6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1aeeace325de926d513736394e66b1c5
アイノ・クーシネンの獄中記憶術
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d161e7de9abcc1a108b306a502c933a
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