投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 7日(金)10時21分9秒
脱線からの脱線になりますが、上山和雄氏の「伊藤先生はどのような立場だったのですか」という質問に高村氏が「よく分からない」と答えている点、実際には詳しく事情を知っているけれどもあまり語りたくない、という感じではないですかね。
伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見ると、1951年の大学入学以降、共産党のバリバリの活動家となった伊藤氏は、「東大細胞の文学部班のキャップ」(p8)として活躍するも、次第に熱が冷め、六十年安保の頃は「すでに運動から離れていた」(p16)そうです。
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六〇年安保の頃
六〇年安保は、修士課程の二年目でした。
佐藤君が、「デモだ、デモだ」と言っていましたから、付き合ってデモに行き、「民主主義を守れ」などと叫んでいました。あとで岸信介氏にインタビューして本を出すことを考えるとおかしいのですが、「岸を倒せ!」と言ったかもしれません。
佐藤君は日共系を離れ、ブントなどの新左翼にかなりシンパシーを感じていたようですが、すでに運動から離れていた私は、彼等の過激な行動を少し斜めに見ていました。
六月十五日、国会突入デモで樺美智子さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
樺さんは国史研究室の四年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいない様子でした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
そう言って、別れました。
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「佐藤君」は佐藤誠三郎(東大名誉教授、政治学)のことで、佐藤は既に日比谷高校時代に「民青のキャップ」であり、「私が駒場に四年いたこともあって、彼のほうが追い越して、先に本郷の国史学科に進んでいた」(p9)のだそうです。
佐藤誠三郎(1932-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%AA%A0%E4%B8%89%E9%83%8E
また、「あとで岸信介氏にインタビューして本を出す」云々は『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)のことですね。
「内閣書記官長・星野直樹」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2bf1221bfa7d693795a7266fc53eb49
「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95f71a948f5f641025ccc78f00fae779
さて、「やっぱりデモが気になって」国会議事堂周辺に行き、南門に「中央大学のブントの勇ましい連中が丸太をぶつけ」「中になだれ込むところまで見て」から家庭教師のアルバイトに行った伊藤氏は、帰宅後、妻から「デモで誰か女の人が死んだ」と聞かされます。(p17)
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ほとんど眠れぬまま朝を迎え、早くに登校して、自分たちが何をなすべきかを、佐藤君など国史研究室の友人たちと相談しました。私が提案したのは、国史研究室が中心となって全学合同慰霊祭を実行しようということでした。全学の統一した行動を第一の目的とし、ジグザグデモもシュプレヒコールもせず、安保反対も岸打倒もスローガンとして掲げず、厳粛な行進を行う、これが慰霊祭のイメージでした。
提案は了承されました。十九日午前零時には新安保が自然成立してしまいます。実行は十八日と決まりました。あと一日半しかありません。研究室全員で手分けして準備にかかりました。
樺美智子合同慰霊祭
会場の準備、受付、ビラの作成、立て看板、マイク、ピアノの調達と、やるべきことは山ほどありました。研究室のメンバーは仕事を分担して懸命に努力しました。
私は共産党と、共産党と反目していたブントに、この慰霊祭を一緒にやろうと説得を試みました。樺さんは共産党からブントに移行していましたから、共産党としては樺さんが自分たちと同じ立場だと思ってはいない。真正面からだけでは駄目と思ったので、生活協同組合の「親分」は当然民青ですから、これをなんとか口説いて、とにかく場合によっては一緒にやってもいいという言質を得ました。ところがブントのほうは、共産党が来るならこれを「粉砕する」と言い出す。
そこで新左翼の一翼、第四インターの北原敦君、のちに北海道大学の西洋史の先生になりますが、彼に「ここは一緒にやろうじゃないか」と話すと、「やる」と言う。結果として文学部教授団、全大学院生協議会、全学助手集会連絡会、各学部学生自治会、東大職員組合、生活協同組合の六団体の協賛を得ることができました。北原君には、「たぶん人が大勢集まるから、警備隊がいないと困る。君のところでやってくれないか」と頼むとOKしてくれました。北原君は本当によくやってくれて、当日集まった連中からたくさんのカンパも集めてくれました。一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました。
国史研究室の主任教授は宝月圭吾という中世史の先生で、彼に代表者になっていただき、デモの許可をとるために一緒に警察に行きました。【後略】
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ということで、ここまで活躍したのであれば、追悼デモの先導車に宝月圭吾と並んで乗るくらいは許されるでしょうね。
私は最初に『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』を読んだとき、ここで笑ってはいけないと思いつつ、「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」で笑ってしまいました。
「これはお金になるから駄目」(by 有馬頼義夫人)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31eb1e5e437860a9120f43f90dc06189
脱線からの脱線になりますが、上山和雄氏の「伊藤先生はどのような立場だったのですか」という質問に高村氏が「よく分からない」と答えている点、実際には詳しく事情を知っているけれどもあまり語りたくない、という感じではないですかね。
伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見ると、1951年の大学入学以降、共産党のバリバリの活動家となった伊藤氏は、「東大細胞の文学部班のキャップ」(p8)として活躍するも、次第に熱が冷め、六十年安保の頃は「すでに運動から離れていた」(p16)そうです。
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六〇年安保の頃
六〇年安保は、修士課程の二年目でした。
佐藤君が、「デモだ、デモだ」と言っていましたから、付き合ってデモに行き、「民主主義を守れ」などと叫んでいました。あとで岸信介氏にインタビューして本を出すことを考えるとおかしいのですが、「岸を倒せ!」と言ったかもしれません。
佐藤君は日共系を離れ、ブントなどの新左翼にかなりシンパシーを感じていたようですが、すでに運動から離れていた私は、彼等の過激な行動を少し斜めに見ていました。
六月十五日、国会突入デモで樺美智子さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
樺さんは国史研究室の四年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいない様子でした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
そう言って、別れました。
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「佐藤君」は佐藤誠三郎(東大名誉教授、政治学)のことで、佐藤は既に日比谷高校時代に「民青のキャップ」であり、「私が駒場に四年いたこともあって、彼のほうが追い越して、先に本郷の国史学科に進んでいた」(p9)のだそうです。
佐藤誠三郎(1932-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%AA%A0%E4%B8%89%E9%83%8E
また、「あとで岸信介氏にインタビューして本を出す」云々は『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)のことですね。
「内閣書記官長・星野直樹」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2bf1221bfa7d693795a7266fc53eb49
「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95f71a948f5f641025ccc78f00fae779
さて、「やっぱりデモが気になって」国会議事堂周辺に行き、南門に「中央大学のブントの勇ましい連中が丸太をぶつけ」「中になだれ込むところまで見て」から家庭教師のアルバイトに行った伊藤氏は、帰宅後、妻から「デモで誰か女の人が死んだ」と聞かされます。(p17)
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ほとんど眠れぬまま朝を迎え、早くに登校して、自分たちが何をなすべきかを、佐藤君など国史研究室の友人たちと相談しました。私が提案したのは、国史研究室が中心となって全学合同慰霊祭を実行しようということでした。全学の統一した行動を第一の目的とし、ジグザグデモもシュプレヒコールもせず、安保反対も岸打倒もスローガンとして掲げず、厳粛な行進を行う、これが慰霊祭のイメージでした。
提案は了承されました。十九日午前零時には新安保が自然成立してしまいます。実行は十八日と決まりました。あと一日半しかありません。研究室全員で手分けして準備にかかりました。
樺美智子合同慰霊祭
会場の準備、受付、ビラの作成、立て看板、マイク、ピアノの調達と、やるべきことは山ほどありました。研究室のメンバーは仕事を分担して懸命に努力しました。
私は共産党と、共産党と反目していたブントに、この慰霊祭を一緒にやろうと説得を試みました。樺さんは共産党からブントに移行していましたから、共産党としては樺さんが自分たちと同じ立場だと思ってはいない。真正面からだけでは駄目と思ったので、生活協同組合の「親分」は当然民青ですから、これをなんとか口説いて、とにかく場合によっては一緒にやってもいいという言質を得ました。ところがブントのほうは、共産党が来るならこれを「粉砕する」と言い出す。
そこで新左翼の一翼、第四インターの北原敦君、のちに北海道大学の西洋史の先生になりますが、彼に「ここは一緒にやろうじゃないか」と話すと、「やる」と言う。結果として文学部教授団、全大学院生協議会、全学助手集会連絡会、各学部学生自治会、東大職員組合、生活協同組合の六団体の協賛を得ることができました。北原君には、「たぶん人が大勢集まるから、警備隊がいないと困る。君のところでやってくれないか」と頼むとOKしてくれました。北原君は本当によくやってくれて、当日集まった連中からたくさんのカンパも集めてくれました。一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました。
国史研究室の主任教授は宝月圭吾という中世史の先生で、彼に代表者になっていただき、デモの許可をとるために一緒に警察に行きました。【後略】
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ということで、ここまで活躍したのであれば、追悼デモの先導車に宝月圭吾と並んで乗るくらいは許されるでしょうね。
私は最初に『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』を読んだとき、ここで笑ってはいけないと思いつつ、「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」で笑ってしまいました。
「これはお金になるから駄目」(by 有馬頼義夫人)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31eb1e5e437860a9120f43f90dc06189
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