風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

きけ わだつみのこえ (3)

2006-08-08 22:37:36 | 
思い切り好きな勉強をできる環境にあるということは、なんて幸せなことなのだろう。

(竹田喜義 1942年東京帝国大学文学部国文学科入学 1943年海兵団に入団 1945年4月14日朝鮮の済州島沖にて沈没戦死 22歳)

昭和十九年八月九日
一週間程前に家を経由して、大学から卒業証書授与願という書類が送られてきた。……自分は万一戦線から帰る日があったら、今のままで学問を打ち切って社会に出るなどという気持は全然なかった。まだ、四年でも五年でも大学に残って自分の気持が承知するまで勉強を続けたいつもりだった。
……その書類をひらいて、「まだ、自分はこのままあっさり大学を出てしまう気持にはなれません。この書付をどうしたらよろしいでしょうか」と聞いた。中将はそれにたいして、ほとんど即座に答えられた。「そんな考えはやめろ、やめろ。この戦争に、大学でもあるまい。……あんな大学に、あんな学問に何の価値があるといえるんだ。今はそんなことへの係累を一刻も早く脱して、自己の本当の本分に目覚めなければならない時なのだ。せっかく出してくれるというんだから、早く出ちまえ、出ちまえ。」もうそれ以上何もつけ加える必要もない気がして、自分は黙って引き下がってしまった。室へ帰ると早速、文学部長宛の願書一通を書き上げて、机の上へほうり出し、煙草を吸いに出た。糸園中将の返答があまりにあっさりと簡明なだけに、それだけに、自分の心には割り切れない、わだかまりあるものが一杯につまっていた。……

八月十五日
日々の生活がともすれば沈滞気味である。希望がないのである。将来に明るさがないのである。……毎日多くの先輩が、戦友が、塵芥のごとく海上にばら撒かれて、―――そのまま姿を消してゆく。一つ一つの何ものにもかえ難い命が、ただ一塊の数量となって処理されてゆくのである。精神的に疲労している―――というより、何かあるものが麻痺している。ことさらに、ひらきなおって一つのことを考える力もない。ただ書物が(わずかな時間をぬすんで読む書物が)清涼剤となってくれる。
(『きけ わだつみのこえ』より)
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きけ わだつみのこえ (2)

2006-08-07 20:07:10 | 
(福中五郎 1945年2月10日ブーゲンビル島にて戦死 28歳)

昭和十六年二月一日
軍隊、それは予想していた何層倍もテリブルな(恐ろしい)所です。一ケ年の軍隊生活は、遂に全ての人から人間性を奪ってしまっています。ニ年兵はただ、我々初年兵を奴レイのごとくに、否機械のごとくに扱い、苦しめ、いじめるより他何の仕事もないのです。……
いいと思っていた戦友も、いよいよ本性を現わしてきました。兵営内には一人として人間らしい者はいません。自分も人間から遠ざかったような気がします。…先週の日曜、やはり便所の中で母へ手紙を書いた時は涙がとまりませんでした。母には元気で張り切っているとは書きましたが、僕の気持ちは死人同様の悲惨なものです。こんな手紙を書いたのを二年兵にでも見つかればおそらく殺されるでしょう。
(『きけ わだつみのこえ
』より)
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きけ わだつみのこえ (1)

2006-08-06 21:08:48 | 

8月6日から15日にかけての10日間は、おそらく日本人が一年で最も戦争というものに思いをはせる期間だと思います。
毎年この季節になると読み返すのが、戦没学生達の手記『きけ わだつみのこえ』です。
戦争は彼らから、夢も愛も自由も「ただ生きたい」というささやかな希望さえも強制的に奪っていきました。
61年前と同じように、今日の私達も様々な問題を抱えています。それでも、彼らの手記を読むと、今日の日本にこうして生きることのできる自分はやはり「恵まれて」いるのだと思わずにはいられません。今の自分は彼ら一人一人の命の上に生きているのだと一年に一度でも思い出すことの意味は、きっととても大きいと思うのです。

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(上原良司 1945年5月11日特別攻撃隊員として沖縄嘉手納沖にて戦死 22歳)

昭和十八年十二月三十一日
昭和十八年も今日で終わりだと思うと感慨無量。今年は実に印象に残る年だった。憧れの本科へ入ったのが十月、それとともに国内体制強化に伴い徴兵猶予取消、入営等めまぐるしい位人生の重大事が次々と現われ、その間、自己の信念に矛盾する事を経験するとともにそれに対して悩んだ。しかし、時日はその間にどんどんたってしまった。現実を直視する暇もないほど数多くの出来事にぶつかった。ただ、命(めい)のままに忙しく送ったこの月日は、果して如何なる結果を与えることだろうか。それを考えると恐ろしいような気がする。……幸なれ、我が前途を。

……
昭和十九年十一月九日
日本軍隊においては、人間の本性たる自由を抑えることを修行とすれど、曰く、そして自由性をある程度抑えることができると、修養できた、軍人精神が入ったと思い、誇らしく思う。およそこれほど愚かなものはない。人間の本性たる自分を抑えようと努力する。何たるかの浪費ぞ。自由性は如何にしても抑えることは出来ぬ。抑えたと自分で思うても、軍人精神が入ったと思うても、それは単に表面のみのことである。心の底には更に強烈な自由が流れていることは疑いない。……偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望である。

……
遺書(日付不明)
私は明確に云えば、自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。戦争において勝敗を見んとすれば、その国の主義を見れば、事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。 

……
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸い付く磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら、実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国にある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。……明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
出撃前夜記す。

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