風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

劇団四季 『ヴェニスの商人』 @自由劇場

2011-06-11 23:11:24 | その他観劇、コンサートetc

「損をしたと言っては笑い、得をしたと言っては嘲ける、おれの仲間を蔑み、おれの商売の裏をかく……――それもなんのためだ?ユダヤ人だからさ……ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい?手がないとでも?臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい?同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷がつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、なにもかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな?針でさしてみるかい、われわれの体からは血が出ませんかな?くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに会わされても、仕かえしはするな、そうおっしゃるんですかい?」

(シェイクスピア 『ヴェニスの商人』 福田恒存訳)


喜劇、、、かぁ、、、。
訳者の福田さんや阿刀田高さん、その他ほとんどの専門家の方々がこれをはっきり喜劇としている以上、やっぱりこれはシェイクスピアの時代には喜劇以外の何物でもなかったのでしょう。
じゃあその作品を、現代の私が喜劇として楽しめるかというと。

ムリ。

時代によって価値観が異なることも、それを承知のうえで読む(観る)べきだということもよぉ~っくわかっているけれど。
深く考えずに、恋あり、スリル溢れるどんでん返しあり、シャイロックに勝った男達も結局は女達の掌に転がされていた、という軽いお話として楽しむのが一番なのだろうけれど。
そう割り切ってこの作品で笑うことは、私にはムリです。頭ではわかっていても、感情が。。。
重すぎるのよ、上のようなシャイロックの台詞が。。。
特にシャイロックが最も憎んでいたキリスト教への改宗を強いられるシーンなど、胸が苦しくなってしまいます。
そうなるともう、純粋に”喜劇”としては楽しめない。

今の時代にこの作品の台詞を一切変えずに上演するなら、私が心おきなく観劇できるのは、やっぱり劇団四季やアル・パチーノの映画のような演出(シャイロックを笑い飛ばす喜劇としてではなく、ユダヤ人の悲劇とする演出)のほうになってしまいます。たとえシェイクスピアが意図したものとは違っていても。

というわけで、今日、劇団四季の『ヴェニスの商人』を観てきました。
シャイロック役を演じているのは平幹二朗さんなのですが、素晴らしかったです!舞台上でのすごい存在感。なによりシェイクスピアのあの持って回ったような長い台詞が、平さんの口を通して語られるとすっと心に入ってくる。すんなりと理解できる。これってすごいことですよ。演技がとても迫力はあるのに、極めて自然だからだと思います。役者ってこういう人のことをいうのだなあ、としみじみと思いました。映画のアル・パチーノもとっても素晴らしかったけれど、同じくらいに(もしかしたらそれ以上に)素晴らしかった。途中の箱えらびのシーンなど正直眠りそうになりましたが、平さんが登場した途端に目がぱっちりでした。

最後に、原作より(上と同じく福田さん訳です)。
グラシャーノーとアントーニオの会話。

「元気がないな、アントーニオー、きみは世の中のことをあまり気にしすぎるのだ。世間というやつは、くよくよすればするほど、ままにならぬものなのさ。本当だよ、きみはすっかり変ってしまったな」

「この世はこの世、ただそれだけのものと見ているよ、グラシャーノー――つまり舞台だ、誰も彼もそこでは一役演じなければならない、で、ぼくの役は泣き男というわけさ」

「では、ぼくは道化役とゆこう。陽気に笑いさざめきながら老いさらぼうて皺をつけ、酒びだしで肝臓をほてらせるがいい。そのほうが苦しい溜息ついて、その一息ごとに心臓を凍らせるより、よほどましだ」

もひとつ本作最強キャラであるポーシャ登場時の台詞。

「本当、私の小さな体には、この大きな世界が重たすぎるのだよ」

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