七月ごろのことでありましたでしょう。朝日新聞社のほうで賞与として五十円か月給のほかにくれました。賞与五十円というのはどう考えてみても理屈には合わない、第一最初入社当時の約束の時も、少なくとも賞与は半期半期月給の三月分以上はというような話だったのに、これはまた意外にどうしたことかと、あえて金が欲しいというのではないが、当初の約束に違うではないか、今から約束を違えるようでは、末が思いやられるというわけで、最初仲に立たれた坂元雪鳥さんのところへ言ってやって、「朝日」の幹部にたずねるようにということでしたが、入社六か月以内のものには賞与のない規定のところを池辺さんかが特別にしるしばかりながらこれだけよこされたものだと事情がわかり、かえって厚意を謝していたようなことがありました。こういうようなところは几帳面で、金のことだからといって潔白そうにずるずるにしておくというようなことはなく、そのかわり事の子細がわかれば釈然となるといったぐあいで実にもってさばさばしたものでした。
(夏目鏡子 「漱石の思い出」)
「銀の匙」が出た時分のこと、先生はその縁日のことを書いたところにあまりくどく同じ様なことがくり返してあるといふことを非難した。私はよくも覚えてゐなかったためか、さういふことがあまり問題にならなかつたためかなにかできき流しておいた。その後先生はまたそのことを注意した。私はまたきき流しておいた。それからある時ふと思ひ出してそこを読みかへしてみた。そして非難が当ってると思つた。先生は私がいつもきき流しにするので私がまだ気がつかずにゐると思つたのかこの時もまたそのことをいひ出そうとした。私は先生が二言三言言ひかけた時に
「あ、あれはわかりました」
といった。先生はすぐに
「あ、さうか」
といつてその話をやめてしまつた。こんなところが大変よかつた。
(中勘助 「夏目先生と私」)
二人がそれぞれに書いているので、漱石には本当にこういうさっぱりとした部分があったのでしょうね。
勘助に何度も注意したというところも、いいなぁと思うのです。何度聞き流されても放らない。適当な付き合い方をしないというか、真面目というか。まあ自分が朝日に紹介したという責任もあるでしょうし、気になって仕方がなかったのかもしれませんが。そして先生の言葉を何度も聞き流す勘助の図太さ笑。