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歩くことが唯一の趣味ですから。

酸ヶ湯と八甲田山

2023-08-26 | Weblog

はじめに来たのは2009年ぐらいだった気がする。八甲田大岳の中腹にある酸ヶ湯温泉には湯治部と旅館部があり、湯治部は昭和初期の木造2階建トイレ共同アパートといった風情で旅館部(見たことない)より安価なので9月の終わり、シルバーウィークと呼ばれだした時期に転がり込み、何泊かした。山は冷やかす程度だった。

つぎは昨年だった。13年前はメールで予約を申し込み、返信をもって予約成立だったのがウェブサイトで予約完結できるようになっていたので、見違えるかと思って訪ねたら全然そんなことはなく、湯治部は相変わらず神田川のアパートみたいな感じで、そこが気に入った。天気に恵まれず、やはり山は冷やかす程度だった。

今年はしっかり山歩きしようと思って、また湯治部のアパートに転がり込んだ。部屋にいても、うっすら硫黄のにおいがする。酸ヶ湯温泉は昭和29年(1954)に国民保養温泉地第1号に指定された。その理由は「卓越した効能と豊富な温泉の湧出量、広大な収容施設、清純な環境、交通の便、低廉な料金」などで、同時に指定されたのは茨城県の日光湯元温泉と群馬県の四万温泉。

国鉄時代は向かって右端に張り出したそば屋の位置に、国鉄酸ヶ湯温泉駅があったので、鉄道でアクセスできて便利だったがJR東日本が廃線にしたので現在は青森からバスに1時間ほど乗らないとたどり着けない。今年90周年をうたっており、何基準の90周年かと思ったら昭和8年(1933)酸ヶ湯温泉株式会社に改組して大浴場などの増改修に着手してから90年だった。

おそらくこのポスターの千人風呂もそのとき計画されたものだろう。混浴の千人風呂は実際に入浴すると千人も浸かることができず、せいぜい百人がいいところだろう。ポスターに写り込んでる人数を数えても、やっと百人を超える程度。これは撮影用にぎっしり詰め込んであり、普通の入浴でこの人数は無理だ。

酸ヶ湯温泉が発見されたのは江戸時代の貞享元年(1684)で、狩人が仕留め損ねた鹿が傷を癒したので鹿湯(しかゆ)……それが訛ってすかゆになったとも、後に酸性の湯とわかって酸ヶ湯になったともいう。温泉の周辺にいくつか登山口がある。そこから八甲田大岳に登頂しようと思ったが、到着した翌日は天気が思わしくなかったので奥入瀬を冷やかした。

雨降りでも渓流ぐらいなら傘を手にぶらぶら歩けると思って十和田湖行きのJRバスに乗ったら、どうにか天気が保ちそうだったので奥入瀬の上流で途中下車して十和田湖まで歩いた。湖畔の食堂でにわか雨をやり過ごし、雨上がりにまたJRバスに乗って酸ヶ湯に戻った。部屋にいると窮屈だから公共のサロンでブログを下書き。

土曜は泊まり客で賑わうサロンも日曜は閑散としている。昭和51年(1976)から二冬にわたり、この宿を基地にして映画『八甲田山』のロケが行われた。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を元にした映画では、日露戦争の演習で冬の八甲田山を行軍した大日本帝国陸軍の部隊が撤退の決断を怠って全滅した。太平洋戦争にしても、マイナンバーカードにしても、インボイス制度にしても大阪万博にしても、リニアモーターカーにしても原子力にしても何にしても、日本人は引き返すことができずに破綻する。山歩きは強行せずに、困難があれば引き返す(出発しない)に限る。

翌日は雨に降られることもなく八甲田登山を楽しむことができた。モヤがなければ、360°の眺望をまのあたりにできるそう(青森市街とか、南八甲田連峰とか、太平洋とか……)だが、近くの峰のほか何も見えなかった。薄々そうじゃないかと思った。ちなみに日露戦争の予行で全滅した部隊は青森からここまで辿り着くことができず、もっと手前で遭難したという。恐ろしいことだ。

 

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