散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

和銅黒谷

2019-11-17 | Weblog
金属は大陸や半島から運ばれてくるもの、まさか国内でとれるとは思われていなかったので秩父に銅がでたときは
元明天皇がそれはもう大喜びで、慶雲5年(708)ニギアカガネが秩父から飛鳥に献上されたとき和銅と改元した。
いまとちがって天皇は代替わりしなくても何か慶事があると改元がおこなわれ、和銅の前後には白雉とか朱鳥とか
霊亀とか神亀とか、おまじないっぽい元号が多い。


埼玉を走る秩父鉄道の和銅黒谷駅から歩く

献上された銅をつかって国内で初めて鋳造された銅銭が、和同開珎(わどうかいちん)。和銅元年(708)のことで
翌々年の和銅3年(710)には平城京に遷都がおこなわれている。古事記ができたのも和銅年間らしく、ようやっと
倭の国も国っぽくなってきた。


駅を出て信号を左折しセブンイレブンの先で

徒歩12分で遺跡があるから車を下りて歩けと立て札に書いてある。写真でみるより上り坂が急で、面倒だったけど
12分ぐらいなら歩いてみようと決心。ちなみに和銅という元号は8年間つづいた。令和は何年までだろう。


300m上ってきたら今度は200m下れと立て札

だんだん、おっくうになってきた。しかし、ここまできて引き返すのも悔しいので、立ち止まってどうしようかと
息を整えながら考える。遺跡といっても、べつに大したことないのではないだろうか。どんな遺跡があることやら
怪しいといえば怪しいものだ。


そこへカップルがきて足取り軽く下りていく

あんな人たちに負けるわけにはいかないので、しかたなく心細い急な坂を下りていく。写真でみるより膝を痛めて
しまいそうだから、ゆっくり、ゆっくりと歩む。なにやら飛鳥の道を歩いているような錯覚を起こす。


でっかい和同開珎で記念写真を撮る人たち

日本通貨発祥の地、とか誇らしげに書いてあるけれど、たぶん和同開珎というのは現代でいう記念コインのような
もので、そのころ通貨といえば絹とか米とか貴重で保存が可能な現物だったにちがいない。室町時代になっても、
宋のコインが使われていたぐらいだから、日本に通貨が本当に普及したのは江戸時代じゃないだろうか。


あんな斜面が露天掘りの跡……

708年といえば2019年から遡ること1311年。そのあと秩父の黒谷のあたり、あっちこっち掘り返して本当はどこが
最初だか、よくわからなくなってるはず。地層が露出して自然に掘れたみたいだから、ここが最初の採掘地として
遺跡の扱いになっていると見受けられた。でっかい和同開珎もあるから、もっともらしい。


祝典のお宮が移されて聖神社に

ニギアカガネ産出の祝典のためにお宮がつくられ、場所を移されて今は聖神社になっている。創建は和銅元年……
やっぱりね。ニギアカガネ(和銅)が御神体として祀られているというから、どんな御神体かと思ったら、なんと
ムカデの形をしていた?


銅製ムカデは記念品で銅の塊が御神体だった

なんでムカデなんか? と思ったら、文武百官を遣わすところ遠いので百足の足で我慢せよ!という、ありがたい
んだか残念なんだか、よくわからないセンス。あのころの皇室のセンスを象徴するような。白雉、朱鳥、和銅には
百足、霊亀、神亀……ね。


金儲けの神様として参拝者がむらがってる!

露天掘りの遺跡のほうは閑散としてたのに、金儲けの神様には亡者みたいな人間共がむらがって列をなしている。
こんな人たちに交じるわけにいかないので、絵馬掛けどころを見物にいくと、そこも金の願いばかり。


面白いことが書いてある絵馬は全然なかった

そんなわけだから長居は無用と急いで和銅黒谷駅に戻り、秩父鉄道で寄居へ、寄居から小川町へ、小川町から池袋
へ2時間ぐらいかけて脱出しようと思ったら駅にも和同開珎のモニュメントが輝いていた。









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