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歩くことが唯一の趣味ですから。

番町界隈

2023-11-05 | Weblog

関東大震災で壊滅するまでは番町界隈にちらほら作家や画家、音楽家などが住んでいた。震災後は郊外へ移り住んだ。いまの地理感覚だと山手線の外側へ。まだ倒壊する家屋もないような、手つかずの森や野原が多かったから、被災者が住みつくのに適していた。話はそれるが、震災で被災した寿司職人が地方へ散った結果として、江戸前寿司が全国に広まった。

そんな100年前の震災以前、いまの地理感覚だと地下鉄の麹町とか半蔵門とかに程近い、日本テレビ旧本社ビルの再開発問題で揉めに揉めているという(警官うろつく)番町あたりに暮らした作家や画家、音楽家などの名残というか痕跡というか、ゆかりを求めてある日そこらを歩いて回った。「番町文人通り」という愛称もあるらしい。

たとえば明治29年(1896年)、有島武郎、有島生馬、里見弴の作家3兄弟の父がここに自宅を構えた。3兄弟ともすでに青少年だったから、ここで育ったといっていいかどうか疑問ではあるけど、多感な時期を過ごしたのは間違いない。このへんは徳川の時代に直属の武士を住まわせた場所で、いざとなったら将軍が甲州へ逃げる突破口だった。幕府の瓦解後、住む人が減り、家を構えやすくなった。

3兄弟の長男、『生まれ出づる悩み』や『或る女』の有島武郎が大正12年(1923年)6月9日に軽井沢で自殺し、同年9月1日に関東大震災が起こると、3年後に作家の菊池寛がこの地に住んで文藝春秋社を起こした。文春砲でおなじみの、あの会社だ。菊池寛は芥川賞・直木賞を設立した人でもある。『真珠夫人』なども書いた。

有島3兄弟や菊池寛が住んだ場所はこのようなアパートになっている。大都市の宿命で戸建に住む人が亡くなると跡地はほぼ100%アパートになる。そうでなければ事務所や商業施設になる。番町界隈はアパートばかり。日本テレビ旧本社ビルの再開発が揉めに揉めているのは、ほかでもない地元アパート住民の猛反対があるから。

明治43年(1910年)から泉鏡花が死ぬまで、『婦系図』のモデルでもある愛妻すずと暮らした旧居跡は有島3兄弟や菊池寛の住居跡のアパートのすぐ裏手だった。震災後もここで暮らし続けたようだから、泉鏡花は番町の文人の代表例といってもいいのかもしれない。みんな散り散りになってしまったから。

みんな散り散りになった後、昭和12年(1937年)にパリから帰ってきた画家の藤田嗣治(晩年はフランスに帰化してレオノール・フジタ)がこの地にアトリエを構え、敗戦直前に神奈川の小渕村に疎開するまで住んだ。アトリエは転居後の空襲で焼けたというから疎開して正解だった。ちなみに泉鏡花は空襲より前に他界していた。

藤田嗣治のアトリエがあった場所も、このようなアパートになっている。すぐ隣か、もしかしたら同じ場所に、震災より前に作家の島崎藤村が住んでいたようなのだが、跡地の看板が見つからなかった。芥川龍之介には批判されたけど島崎藤村は日本文壇の功労者なのだから、看板ぐらいあってもいいのに。ちなみに藤村は神奈川の大磯で戦時中に逝去した。神奈川に疎開するのが流行りだったのか。

「君死にたまふことなかれ」で有名な歌人の与謝野晶子と、雑誌「明星」(といっても戦後の芸能誌じゃないほう)を主宰した与謝野鉄幹の夫婦は、明治44年(1911年)から4年間この地に暮らした。ほかにも直木三十五、武田麟太郎、初代中村吉右衛門、網野菊、串田孫一といった人たちが周辺に住んだらしいが、串田孫一の住居跡しか看板が見つからなかった。

だいぶ離れたところに、作曲家の滝廉太郎の居住地跡があった。明治27年(1894年)から7年間、亡くなる2年前まで住んでいたというから、これまで看板の出ていた誰よりも先に暮らし始めた先輩だ。「荒城の月」「花」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」などを作曲した人で、場所も離れているし時期も早いし別格かも。

滝廉太郎の住まいは袖摺坂に面していた。今でこそ車道が2車線もあるが、もとは行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったので袖摺坂という。そんな由来と一緒に、作家の国木田独歩もこのへんに住んでいたと案内表示に書いてある。一番町のほうが、文人の住みつくのは四番町などより早かったのかもしれない。そしてみんないなくなった。

関連記事:  田端(文士村)

 

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