いっぺんぐらい竿燈をこの目で見ても構わない。祭りはあまり好みじゃないけど一応どんなものか現地でともかく体験しようと秋田まで足を運んだ。竿燈はもともと、眠り流しという祭りだったのを明治中期の文部大臣(田中なにがし)が竿燈と名づけて以来、今日すっかり竿燈になった。
夕暮れどき、竿燈がいっせいに立てられるのを見ようと秋田駅から旭川のほうへ歩いて二丁目橋のところで立ち見の待機。すんなり、いい場所で立ち見できる。青森ねぶたもそうだった。東北だからなのか、全国どこでも祭りはそうなのか、祭りにあまり興味がないからわからない。警察の車両が視界をさえぎる場所にいるのだけが竿燈の残念なところ。
いっせいに竿燈が起こされ、高く立ち上がる。なかなかの壮観だけど警察の車両がやっぱり邪魔してる。民の祭りを官が妨げる典型例が目の前にあった。車両の妨害さえなければ、江戸時代の文化12年(1815)ごろ成立したという『秋田風俗問状答』に記された「眠なかし」の図絵そっくりの光景が目の前にある。
祭りが終わったら、いちばん高いところに掲げた御幣を川に流すのだそうだ。竿燈は200本ぐらいあり、持つ人の年齢に応じて大若・中若・小若・幼若に分かれており。いま目の前に聳えるのは大人が持つ大若だろう。長さ7.5mの親竹に3mの横竹を7段、2mと1mの横竹を各1段それぞれ縄で結び、46個の提灯を吊るして火を灯す。重さは56kgらしい。
額に親竹を乗せたり、掌・肩・腰で支えたりしながら、笛や太鼓や掛け声に合わせて練り歩く。それを人が眺めるシンプルな祭り。夜空を彩る竿燈は光の稲穂と呼ばれるそうで、練り歩くうちに実り豊かな稲穂さながら頭を垂れる。稲穂にも見えるけど、帆船の帆にも見える。トラック野郎のシャンデリアにも見える。
こういうのを数日間、夕暮れから2時間か3時間ぐらい続ける。たっぷり見物して満足したので立ち去る。これだけでブログを書くのも何だから、秋田のどこかをついでに尋ねようと思い、およそ30年ぶりに武家屋敷のまち角館を再訪した。1993年の、秋以来ではないだろうか。
角館の駅舎が30年前こうだったかどうか、まったく覚えていないけど多分こうではなかったろう。当時まだ秋田新幹線「こまち」は開業していなかった。開業したのは1997年らしい。といっても在来線のレールを共用し、速度を落として運行しているのだから新幹線とは名ばかりの「ミニ新幹線」だし、法律上も在来線だ。見せかけの秋田新幹線、角館駅。
駅舎を背にして「駅通り」を道なりに進み、突き当たりの郵便局(およそ700m先)の前で右折すると、約300mで木立に囲まれた武家屋敷通りにさしかかる。江戸時代から残る城下町に、京都から輿入れした姫が持参した枝垂れ桜が生い茂り、みちのくの小京都と呼ばれている武家屋敷通り。30年前どこに感興を催したか思い出せないまま、そぞろ歩きする。
通りの左右に点在する武家屋敷の中には「公開中」の札を掲げたところと「非公開」の札を掲げたところがある。公開している屋敷は入口で500円程度の見学料を取るところと、無料のところがある。気のせいか30年前よりも非公開のところが多いようだが、ほとんど何も覚えていないので確かなことは何もわからない。
武家屋敷通りの先にある、こんもりした古城山が角館城址だが、とくに何も残っていない。戸沢氏が1423年に築城し、1600年の関ヶ原の戦い後、常陸から転封を命じられて1602年に出羽入りした佐竹氏が翌1603年に一族の蘆名氏をこの地に置いた。その配下が住んだ武家屋敷がいまも点々と残っている。城郭は1615年の一国一城令で破却されたので、こんもりした山しか残っていない。
30年前はそういった経緯にまったく関心もないまま、あっちの屋敷からこっちの屋敷へぶらぶらとハシゴして、何かしらの刺激を受けたものらしい。もしかしたら紅葉の美しい時期だったのかもしれない。そうでもなければ手当たり次第に歩き回っても何がそんなに面白いのやら、今となっては想像もつかないから。春なら通りの枝垂れ桜が咲き誇り、さぞかし壮観なのだろう。しかし桜の記憶は一切ない。
平賀源内に師事し、西洋風の秋田蘭画を創始した小田野直武は『解体新書』の挿絵を描いて名を高めたが、やがて江戸に吹き荒れる異学の禁への流れに関係あるのかどうか先んじて藩から蟄居を命じられ、江戸からこの地へ引き戻されて失意のうちに謎の死を遂げたといったことが青柳家の展示に記されていた。得体の知れない異国かぶれと危険視されて殺されたのだろう。気の毒な先駆者だった。
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