散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

秋田・角館

2024-09-14 | Weblog

いっぺんぐらい竿燈をこの目で見ても構わない。祭りはあまり好みじゃないけど一応どんなものか現地でともかく体験しようと秋田まで足を運んだ。竿燈はもともと、眠り流しという祭りだったのを明治中期の文部大臣(田中なにがし)が竿燈と名づけて以来、今日すっかり竿燈になった。

夕暮れどき、竿燈がいっせいに立てられるのを見ようと秋田駅から旭川のほうへ歩いて二丁目橋のところで立ち見の待機。すんなり、いい場所で立ち見できる。青森ねぶたもそうだった。東北だからなのか、全国どこでも祭りはそうなのか、祭りにあまり興味がないからわからない。警察の車両が視界をさえぎる場所にいるのだけが竿燈の残念なところ。

いっせいに竿燈が起こされ、高く立ち上がる。なかなかの壮観だけど警察の車両がやっぱり邪魔してる。民の祭りを官が妨げる典型例が目の前にあった。車両の妨害さえなければ、江戸時代の文化12年(1815)ごろ成立したという『秋田風俗問状答』に記された「眠なかし」の図絵そっくりの光景が目の前にある。

祭りが終わったら、いちばん高いところに掲げた御幣を川に流すのだそうだ。竿燈は200本ぐらいあり、持つ人の年齢に応じて大若・中若・小若・幼若に分かれており。いま目の前に聳えるのは大人が持つ大若だろう。長さ7.5mの親竹に3mの横竹を7段、2mと1mの横竹を各1段それぞれ縄で結び、46個の提灯を吊るして火を灯す。重さは56kgらしい。

額に親竹を乗せたり、掌・肩・腰で支えたりしながら、笛や太鼓や掛け声に合わせて練り歩く。それを人が眺めるシンプルな祭り。夜空を彩る竿燈は光の稲穂と呼ばれるそうで、練り歩くうちに実り豊かな稲穂さながら頭を垂れる。稲穂にも見えるけど、帆船の帆にも見える。トラック野郎のシャンデリアにも見える。

こういうのを数日間、夕暮れから2時間か3時間ぐらい続ける。たっぷり見物して満足したので立ち去る。これだけでブログを書くのも何だから、秋田のどこかをついでに尋ねようと思い、およそ30年ぶりに武家屋敷のまち角館を再訪した。1993年の、秋以来ではないだろうか。

角館の駅舎が30年前こうだったかどうか、まったく覚えていないけど多分こうではなかったろう。当時まだ秋田新幹線「こまち」は開業していなかった。開業したのは1997年らしい。といっても在来線のレールを共用し、速度を落として運行しているのだから新幹線とは名ばかりの「ミニ新幹線」だし、法律上も在来線だ。見せかけの秋田新幹線、角館駅。

駅舎を背にして「駅通り」を道なりに進み、突き当たりの郵便局(およそ700m先)の前で右折すると、約300mで木立に囲まれた武家屋敷通りにさしかかる。江戸時代から残る城下町に、京都から輿入れした姫が持参した枝垂れ桜が生い茂り、みちのくの小京都と呼ばれている武家屋敷通り。30年前どこに感興を催したか思い出せないまま、そぞろ歩きする。

通りの左右に点在する武家屋敷の中には「公開中」の札を掲げたところと「非公開」の札を掲げたところがある。公開している屋敷は入口で500円程度の見学料を取るところと、無料のところがある。気のせいか30年前よりも非公開のところが多いようだが、ほとんど何も覚えていないので確かなことは何もわからない。

武家屋敷通りの先にある、こんもりした古城山が角館城址だが、とくに何も残っていない。戸沢氏が1423年に築城し、1600年の関ヶ原の戦い後、常陸から転封を命じられて1602年に出羽入りした佐竹氏が翌1603年に一族の蘆名氏をこの地に置いた。その配下が住んだ武家屋敷がいまも点々と残っている。城郭は1615年の一国一城令で破却されたので、こんもりした山しか残っていない。

30年前はそういった経緯にまったく関心もないまま、あっちの屋敷からこっちの屋敷へぶらぶらとハシゴして、何かしらの刺激を受けたものらしい。もしかしたら紅葉の美しい時期だったのかもしれない。そうでもなければ手当たり次第に歩き回っても何がそんなに面白いのやら、今となっては想像もつかないから。春なら通りの枝垂れ桜が咲き誇り、さぞかし壮観なのだろう。しかし桜の記憶は一切ない。

平賀源内に師事し、西洋風の秋田蘭画を創始した小田野直武は『解体新書』の挿絵を描いて名を高めたが、やがて江戸に吹き荒れる異学の禁への流れに関係あるのかどうか先んじて藩から蟄居を命じられ、江戸からこの地へ引き戻されて失意のうちに謎の死を遂げたといったことが青柳家の展示に記されていた。得体の知れない異国かぶれと危険視されて殺されたのだろう。気の毒な先駆者だった。

 

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青森・野辺地

2024-09-07 | Weblog

青森にくるたび三角のあれは何だろうと思いながら近づかないでいたけど、あの三角こそ「ねぶたラッセランド」といって青森ねぶた祭のねぶたを建造しては、保管しておく場所らしい。

ちゃんと役割あったのか、と三角ねぶたラッセランドに近づいていく。当日19:45から21:30まで青森ねぶた祭が開催されるため、夕方ともなればドックのような倉庫から青森ねぶたが引っ張り出されて市内のねぶた運行コースの方へ移動しだす。

元来お祭とか集会とか人々が熱狂する場所は好きじゃない(音楽や演劇の会場は例外で好き)なので、ねぶた祭よりも楽屋のようなラッセランドの光景に心を惹かれる。満足したから、ねぶた祭の本番を見ずに帰ろうかな? という気になってきた。大抵イベントは開始前に面倒くさくなる。

法被のようなものを着てむらがる男女はやじうまではなく、ラッセラー! ラッセラー! と市内ねぶた運行コースを踊り歩く参加者だった。新町通りを練り歩き、八甲通りに折れたあと市役所の前などを通って平和公園通りをラッセラー! ラッセラー! ねぶたの前後を集団で押し通る。

こんな具合だ。市内の目抜き通りを交通規制して我が物顔にラッセラー! ラッセラー! と行進するのが非日常的で楽しいのだろう。時折ねぶたを止めてグルグル回すのを沿道で眺めていると壮観だった。8月の初めごろ数日にわたって実行される。

1日こっきりではなく何日もやる行進だから、その気になれば見物ぐらい比較的容易にできるのに、その気になることが生まれてこのかた一度もなかった。ふと今年の夏ねぶたを実際この目に焼き付けようなんて思い立ったのは、もしかしたら死亡フラグかもしれない。

青森ねぶた見て終わりも何だから、県内どこか行ったことない町へ行ってみようと考えて、どうしても通過しがちな野辺地を訪ねた。駅貼りのポスターを眺めるかぎり、北前船の寄港地として設置された石造りの常夜燈がいちばん観光の目玉みたい。

野辺地の駅に隣接する町の観光物産PRセンターで観光・史跡ガイドマップをもらい、電動アシスト自転車をレンタルして常夜燈(町指定史跡)ほか2ヶ所を見物することにした。歩いて行けそうに思えたのだが、実際に足を運ぶとなかなか遠い。上り下りも多く電動アシスト自転車を使うのが妥当だった。

この常夜燈は幕末の文政10年(1827)野辺地の廻船問屋、野村治三郎が上方の商人の援助を受けて港に建てたもの。駅のポスターに「三百余年の街道の足跡」とあったわりに新しい。野辺地の港が急速に発展したのは明和2年(1765)に南部藩が始めた大坂回銅(後述)がきっかけという。そこから数えても三百余年に足りない。

南部藩が始めた大阪廻銅というのは、幕府が全国の主要銅山に割り当てた御登銅(おのぼりどう)の供出のことで、幕府は御登銅を長崎貿易の重要輸出品とした。鎖国なんかしてなかったのだ。南部藩では銅を牛の背に乗せて野辺地へ運び、北前船で大坂へ登らせた。大豆を藩の事業として大坂へ送ったのも、このころからだという。

常夜燈のそばに復元された北前船があった。大坂廻銅より前にも、貞享2年(1685)から清朝への輸出品として俵物(煎海鼠、乾鮑、鱶鰭など)が大坂へ送られたというから、そこから数えれば三百余年になる。そのころは常夜燈もなく北前船が寄港したのだろうか? 常夜燈ができてからは毎年3月から10月まで(航海がある時期)毎夜、灯りがつけられ標識になった。大坂からは木綿や塩など日用品が南部藩に届いた。

南部と津軽は昔から仲が悪い。戦国時代に南部が津軽を乗っ取った。それから津軽が南部から分かれ出て、江戸時代を通じて津軽と南部がそれぞれ藩として奥州に並んだが、常にいがみあい、お互い敵として削りあいを続けた。南部藩の常夜燈から自転車をこぐ脚がダルくなるほど西北へ進むと津軽藩(弘前藩)との藩境があった、

いわば北朝鮮と韓国を分断し米ソがにらみあう冷戦時代の38度線のようなものだ。そこには念入りに4つの塚が築かれ、南部と津軽が監視の目を光らせていたという。築造の時期はわからないが正保2年(1645)の国絵図にはすでに描かれているそうだから、津軽藩が独立してまもなく藩境として築かれたらしい。

幕末の戊辰戦争のとき、奥羽越列藩同盟として官軍に対立した諸藩のうち、津軽藩(弘前藩)が同盟を抜けて南部藩に攻め入った。官軍に与したようでいて、ただ単にうらみ深い南部を叩きたい一心ではなかったか。警戒していた南部藩は野辺地で津軽を返り討ちにした。幕府瓦解と明治新政に影響もなく、津軽藩士が40名あまり命を落とした。負けても官軍だから津軽の死者のうち26名の慰霊碑が南部の野辺地に維新後まもなく建てられた。慰霊碑は全部、津軽に捧げられており、南部の犠牲者の名はひとつもなかった。

 

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函館

2024-08-23 | Weblog

函館山にのぼって街を見下ろした。旭川から陸路で東京へ戻る途中、1泊することにしたのだ。飛行機なら1時間半ほどで羽田につくのに、列車だと旭川から函館まで特急で5時間半か6時間かかる。函館から東京までは新幹線で4時間そこそこ。北海道が広いのか、新幹線がすごいのか。10時間ぐらい列車の座席で辛抱すれば1日で帰宅できるのだが、急ぐわけでもない(急ぐなら飛行機に乗る)ので、新幹線に乗り換える前に函館をぶらぶら。

夕方のぼってきて、日没まで1時間あまりツッ立ってるのも何だから、夕陽が沈んで街の灯が点るのを眺めつつ山頂のレストランで夕食を済ませる。ゆっくり、おつまみを頼んで、ビールを時間かけて飲む。写真ではちょっとわからないかもしれないが、だんだん日が翳り電灯の光が空気の動きで揺らめくのを眺めるのは楽しい。夜景より夕景が見応えあるかもしれない。

北海道の南に伸びた半島の先に、ぽっかり浮かんだ島がこの函館山だったんだろう。島と半島が陸でつながった低い土地が函館の市街地で、夜になると街の灯が狭い低地にひしめき合うのが箱館の夜景だ。明日どこかへ寄ろうか。函館には何度か来たことがあるので、まだ行ったことない場所……おそらく、あの街の灯のいちばん奥の右手にありそうな……?

厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院にやって来た。明治31年(1898年)に、フランスのウプシーにある修道院から8名の修道女が伝道のために訪ねてきたのが始まりだという。敷地に入ると大天使ミカエルの像が建っていた。裏側の説明を読むと、ミカエルは悪魔が神に叛逆したとき「ミ・カ・エル」(ヘブライ語で『神のように振る舞う者は誰か』の意)と叫びながらこれを破ったので、聖ミカエルと呼ばれるとか。英語だとマイケル。

順路に沿って敷地の奥まで進むと聖堂がある。年に1回だけ公開されるが、それ以外の日は外から眺めるだけ。修道院の建物は大正14年(1925年)の火災で大部分が焼けた後、昭和2年(1927年)に再建されたものであるという。そうなんだ。Ora et Labora(『祈れ、そして、働け』という意味のラテン語)を掲げて、修道女が毎朝3時半起きで夜7時45分就寝まで読書と祈りと仕事をする修道院のメインの建物。

創立当初は、こんな建物だったらしい。資料が展示されている建物(売店も併設)で展示を見物した。草創期の修道女たちの生活は困難を極め、それを見かねたフランスから引き上げを勧められるほどであったとパネルに書いてあった。どんな人たちなんだろうと思ったら、8人の修道女たちの当時の写真があった。

厳律シトー会というのがどういう会で、天使の聖母トラピスチヌ修道院がどんなところか記した本(パンフレット)が200円で売られていたので、買って読んでみることにした。

マダレナ(たぶんマドレーヌの原型)という、小麦粉と有塩バターと上白糖で作ったケーキ(卵は使わないのだろうか)も買った。トラピスト修道院のクッキーが函館名物として有名で市内いたるところで箱売りしてるけど、トラピスチヌ修道院はマダレナ推し。(他にクッキーとホワイトチョコレートも作って売ってる)

修道院を出たところに地図の掲示があり、トラピスチヌ修道院はだいたい思った通りの位置にあった。トラピスト修道院は半島の反対側(北斗市)にあるようだ。確か行ったことあるのに場所が全然わかってなかった。新幹線の函館駅は「新函館北斗駅」という名称で、よくわからないが北斗市にあるのだろう。そこまで移動して、新幹線で今日こそ帰らなければ。

 

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富良野・美瑛

2024-08-14 | Weblog

大雪山から下りてきて、旭川で日数が余った。そこで駅の観光案内所に寄ったら窓口のボランティアさんが話しかけてきたので、「バスツアーの案内はしていますか?」と尋ねてみた。「市内観光バスはありませんが、富良野や美瑛に行くツアーならあります」というので、概略を聞いた。JR富良野駅、美瑛駅、旭川駅からそれぞれツアーが出ている。空きがあればスマホで前日まで予約できる。

コロナ以前なら定期観光バスの現地ツアーがあった地方も、コロナでツアーが廃止になってタクシー観光しかないところが増えた。バスツアーなら半日3,000円〜5,000円程度、1日コースでも1万円しないのが普通だったが、タクシー観光ツアーとなると3万円は覚悟すべきだろう。円の価値が暴落してるから外国人の利用はあるかもしれない。いまも多いのは定期観光バスじゃなく、大都市の発着で地元に金が落ちない企画観光バスツアーで、現地出発・現地解散できない。

そこいくと富良野・美瑛・旭川にはいまでも、現地出発・現地解散の定期観光バスが毎日のように運行している。たまには乗ってみるか。スマホでサイトにアクセスして必要事項を入力し、翌日の「あさひかわ号」を予約した。朝10時40分にJR旭川駅前で集合し、夕方17時40分ごろ旭川駅に到着する観光周遊バス「パッチワークコース」で、空港やホテルを経由する集合・解散タイミングもある。大人8,000円。

北海道といえば阿寒湖のマリモ、霧の摩周湖、屈斜路湖、知床、宗谷、洞爺湖、といったところが人気だったのに、このところ富良野・美瑛がいちばん人気なので定期観光バスが運行しているという。そういえば大雪山の旭岳、黒岳にアクセスする手段は路線バス(旭岳は1日3便、黒岳は1日7便)だった。しかも空いていた。

ベテランのバスガイドさんが北海道観光の今昔をマイク使ってしゃべる。何日か山の中にいて人とあまり話してないし、新しいことより古いことに興味を覚えるタチなので道中しっかりガイドさんの昔話に耳を傾ける。今の話も傾聴する。インバウンドの旅行客(たぶん中国大陸の人たち)も乗ってるが、トークは日本語オンリー。

旭川は盆地なので夏に気温が上がり、米づくりに適しているそうだ。しかし昭和50年ごろから政府が減反を指示して小麦や大麦を農家に作らせ、半世紀たって今度は米を作れと急に言い出した。ハイそうですかと畑を田んぼに戻しても、ろくな米などできはしないと農家が怒っている。政府が農家に罰金を課すとか言い出したのはそれも理由の一つか?

美瑛に入ると火砕流によって作られた丘のうねりが畑に覆われて、独特の景観をなしている。作物の種類で畑の色が変わりパッチワークのようだから「あさひかわ号」のツアーは「パッチワークコース」というのだろう。セブンスターやマイルドセブンといった煙草や、スカイラインといった自動車などのCMが昭和のある時期、この地でよく撮影された。

「ケンとメリーの木」は昭和47年(1972年)に日産スカイラインのCMに登場して、農道に立つ樹木がにわかに人気スポットと化した。それから半世紀以上になるわけで当時より「ケンとメリーの木」もずいぶん立派になったそうだが、CMをみたことがないので何のことやら全然わからない。「セブンスターの木」や「マイルドセブンの丘」を車窓から示されても感慨わかない。中国人はもっとだろう。

北西の丘展望公園というところ(美瑛の丘の畑が見渡せる)で、北あかりのコロッケを買い食い。ちょうどお昼どきでお腹が空いていたこともあり、美瑛はジャガイモの産地ということもあり、おいしかった。カルビーのポテトチップスになるジャガイモの拠点が美瑛にあり、コンテナを積み上げた施設を車窓から眺めた。そこらじゅうの畑に紫や白のジャガイモの花が咲いていた。

バスが農道や林道をゆくとき、まっすぐな道路がつづいてガイドさんが北海道の道の特徴として解説してくれた。原野の地図に定規で引いた通りに道をつくるから、このようにまっすぐなのだそうだ。西南戦争などで負けた不平士族が屯田兵にされて過酷な工事を課されたのだろうか? 道東の場合そうらしいから、道央もそうかも。直線ながらアップダウンが激しい。

富良野のファーム富田でラベンダー畑をみた。ジャガイモやカボチャやコーンばかり育てても金にならないので、富良野の農家は香水の原料になるラベンダーを換金作物として手がけた。しかし思ったほど金にならなかった。ラベンダーづくりから手を引く農家ばかりになり、富田さんが最後の一軒として残った。毎年やめようと思いながら続けているうちに、ドラマ「北の国から」で富良野が注目され、ラベンダー畑にも観光客が押し寄せた。それから40年。富良野は北海道いち人気のスポットだ。

ラベンダーのにおいを嗅ぐと思い出すのは「時をかける少女」の大林宣彦監督と、村西とおる監督。それから作家の筒井康隆のこと。順序がおかしいような気もするが、必ずこの通りに想起される。ラベンダーのにおいを嗅ぎながらラベンダー農場の観光カフェで「越冬じゃがいもメークイン・男爵のカレー」と「ラベンダーコーヒー」の昼食をとる。ツアーに食事は含まれていない。北海道のジャガイモうまい。

富良野をあとにして白金温泉のほうへ向かう。温泉に入るのではなく、その近くにある「青い池」を見物しに行く。わりと最近になって見出された池で、アルミニウムと温泉成分がまざることにより、とても青いのだという。今回のバスツアー、この道だけ渋滞していた。他の名所にスイスイ行けたにもかかわらず。それには理由がある。

美瑛町が「青い池」の近くに設けた駐車場に、コスト削減のため受付のおじさんを置かなくなったので、入場口でドライバーによる機械操作が必要になり、駐車場が空いてるにもかかわらず渋滞が生じるのだった。昨年までこんなことはなかった。コスト削減のやり方がまずかった。観光客が迷惑している。早急に改善が必要だ。おじさんを係として常駐させるべき。(事務所に役人がいるようだけどカーテン閉めて混乱を放置していた……!)

「青い池」は異様に青かった。十勝連峰の美瑛岳から流れ出る美瑛川そのものがアルミニウムを含み、温泉成分とまざるのか、まざらないのか流れる水がなかなか青いという。その美瑛川に設置されたブロック堰堤に水がたまって「青い池」ができ、SNSで拡散して人気スポットになった。堰堤の中の樹木は酸性の水にやられて枯れた。おそらく魚は棲めまい。

美瑛川の上流にある「白ひげの滝」がこちら。確かに流れが青い。白金温泉のホテルのそばの白い橋に大勢の観光客が佇んで滝を見下ろしている。ここも日本人より中国人が多い。まともな産業が国内になくなり、インバウンドに寄りかからざるをえない実情があるのだから、招かれてきた外国人をみてオーバーツーリズムなんて揶揄するのはお門違い。そういう陰湿な中傷は客を逃がす元だ。

白金温泉は十勝岳の登山口でもある。標高1,000mのところまで自動車で上がり、そこから2,077mの山頂までは徒歩になる。標高差1,000mはなかなかだな。大雪山系で最も高い旭岳でもロープウェイ駅と山頂の標高差は数百mだった。そう考えると登り降りが大変そうだけど、また機会があったら白金温泉を起点にして十勝岳や美瑛岳に登ってみたいような登ってみたくないような。

最後の立ち寄りスポット、美瑛神社で縁結びを求める人に評判のハート型をひとつ見物。よく探せば境内にハート型がいくつもあり、たくさん見つかると恋愛パワー上昇が叶うらしい。いまさら恋愛パワーが上昇したり、縁が結ばれたりしても困るので、ひとつでやめておく。絵馬を眺めてバスに戻る。

JR旭川駅の裏手の、こんな河川敷の木陰に熊が出没するようになってしまったそうだ。「私が子供だった頃はこんなところに熊が出るなんて考えられないことだった」とガイドさんは嘆く。子供だった頃って何時代だろう? 昭和なのは間違いないとして「ケンとメリーの木」とか懐かしむということは……謎を残したまま、バスは旭川に着いた。

 

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大雪山

2024-07-04 | Weblog

勤続30年の休暇を会社が付与したので、キャンプ用具を一式かついで大雪山に来た。この30年の悪政の結果、円の価値が60年前(1964年)より下がったと聞いているので海外へ飛ぼうとは思えず、梅雨のない北海道がそろそろ登山の季節らしいから地図をたよりに歩こうと思った。

雨が降ったら宿をとり、晴れたら野営しようという考えで、なかなか使う機会のない大型のバックパックに簡易なテント(ツェルト)と化繊のシュラフとエアマットと、ミニマムな煮炊きの道具と着替え少しと、日帰り装備のデイパックなどを詰めてしばらく放浪してみる。

飛行機に燃料を持ち込めない(預け入れも不可だ)から、旭川駅前のイオンモール3階の100円ショップで固形燃料とライターを買い求め、とりあえず1日3便あるバスで旭岳ロープウェイを訪ねたら強風のため運休していた。小雨もパラついてるし、野営する気にもならず、旭川にバスでトンボ帰り。

車窓から眺めても景色が雄大で、どこか荒涼としており、人の営みも含めてフロンティアの趣きがある。山を歩くと疲れるから、公共交通機関での移動と合間の読書だけで休暇が終わっても文句はない。平日なので車内には定年退職後のご同輩と、どこか海外からわざわざ分け入ってきた小金持ちしかいない。街でも山でもそう。街に泊まり、小金持ちの素行を眺める。

翌朝、他の路線バスに乗って大雪山の別の登山口にアクセスした。小手調べにデイパックだけで層雲峡ロープウェイを利用し黒岳に登頂。その先の野営地など見学して下りてくる。セイコーマートで食料を少し補充すれば、野営地をつないで黒岳から旭岳へ抜け、例のバスで旭川に戻れる気がした。推奨される携帯トイレも浄水器も荷物にたまたま入ってるし。

大雪山の野営地で携帯トイレと浄水器が推奨されるのは、し尿の対策だろうか。高緯度の高地で微生物に分解されない、し尿の害が問題になっている。携帯トイレは害を増やさないためとポスターに書いてあり、登山地図に浄水を推奨する注があるのは、し尿の害から身を守るためと思えてならない。

人が分け入ると汚染されるのだ。しかし、野生動物の糞尿はどうなんだ。あるいは、エキノコックス? 水洗トイレと電源とWi-Fiのある都会の生活がなつかしく、野営ばかりもしていられない。モバイルバッテリーが充電なしで保つのはせいぜい2〜3日だし、ソーラーバッテリーも一応あるが携帯トイレの数にかぎりがある。

2泊3日、ゆるゆる山行を果たして里に下り、古書店で読み捨ての本を買い込んで、安宿でゴロゴロして読み耽るのも悪くない。安逸に放浪するなら山より街だろうか。費用も山より街のほうが抑えられる(選択肢が多い)というのが、社会生活を30年ほど送った末に束の間リタイヤ暮らしを経験してみて得られた教訓だった。

 

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ナカバ平

2024-06-08 | Weblog

「ゴミはお持ち帰りください」とゴミ箱をいくつも並べた上に書いちゃうと、その中のゴミを持ち帰ってください(ご自由にお持ち帰りください、そして売るなり何なり好きにしてください)とお願いしているように見えてしまう。ここは富士急行の河口湖駅……ごった返す人の約9割は外国人だ。観光地はインバウンド頼み。

駅前のコンビニにカメラを向けるフィリピン人、マレーシア人、パキスタン人、フランス人、デンマーク人、中国人、台湾人……彼ら、彼女らが何を珍しがって撮影してるのかと思ったら、コンビニの屋根ごしに見える富士山だった。そういうことかと彼ら、彼女らを尻目に坂を下り、河口湖へ。観光客相手の店に日本人の姿はない。

人混みを避けて河口湖天上山あじさいハイキングコース入口のほうへ歩を進める。途中にある看板の文字を読むと、船津天上山あじさい植栽事業は平成11年3月27日・28日の両日、下記の船津地区住民のボランティアにより植栽されたという。

愛友会・辰巳会・子丑会・二一会・気寄会・ハーバル工房保護者会・船津戦没者遺族会・揚友会・三五会・富士見会・七日会・睦会・高尾会・梅若会・若葉会・十日会・梨の木会・うそぶき会・一三一四会  以上、河口湖町・船津財産区

あじさいハイキングコースというわりには、あじさいの花があまり咲いてないので、どうしたんだろう? 平成11年に植えたけど令和6年までの四半世紀ですっかり枯れてしまったのか? と心配して別の看板の文字を読んだら、7月中旬から8月上旬があじさい開花の時期らしい。標高が900mそこそこあるので低地とあじさいの時期がズレているようだ。

その先を登ると天上山の中腹、ナカバ平に出た。ドイツ人か何か頭頂部の薄やかなのが石碑の前でスマホまさぐり、お困りの様子なので無視してベンチに腰掛けて休む。薄やかなのが近づいてきて、「この字はホレタですか?」とスマホを見せてきた。ゲイなのか? 不器用なやり方で「惚れた」と伝えてきたのか? 山の男はヤバい。

恐る恐るスマホの画像をのぞくと「惚れたが悪いか」と書いてある。やっぱりゲイだった。逃げると襲ってくると聞いたので、正対して平静を保ちつつ「惚れたが悪いか太宰治と書いてあります。太宰治は日本の作家です。昔、タヌキがウサギに惚れたのでウサギに嫌われて殺されました。そういう話を書きました」と伝え、惚れたら死ぬ暗示を深層心理に送り込む。

それを聞いて納得したのか、あるいは恐れをなしたのか、「Oh!」といって男がのしのし去っていく。そこで石碑の裏に回り、小さく刻まれた文字も読む。散歩の途中とにかく何でも読む習性があり、散歩ブログのネタになることが少なくない。

太宰治の名作「お伽草子」のなかの一篇「カチカチ山」は、ここ河口湖町船津の天上山のあたりを舞台として書かれた。富士山と河口湖の景色を配して、有名な昔噺の兎を美少女、狸を中年男とする卓抜な性格設定で書かれた物語は、時とともに光彩を増す珠玉の作である。不朽の傑作を生み出すもとになった地点から、人を喜ばせる面白い物語を書くために、命を削った作者の面影を忍びたい。  長部日出男

 

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なめとこ山

2024-05-05 | Weblog

なめとこ山の熊のことならおもしろい。で始まる宮沢賢治の「なめとこ山の熊」なら子供のころ読んだことがある。どうやらここは、なめとこ山のあたりらしい。東京を午前中に出て、新幹線で駅弁を食べて、新花巻からバスに乗って、バス停で宿のバンに乗り換えて到着したら午後4時。夕食は5時。

移動と食事しかしていない。夕食後、といってもまだ明るいうちに湯に入る。白猿の湯というのが自慢らしい。熊とか、白猿とか、動物の多いところだが、この白猿の湯は宿の案内によると日本一深い自噴岩風呂だという。自噴ということは、この場所で噴出してる(ポンプなどで運ばない)のだろう。深いから立って浸かる。

神棚の奥に書いてある文字をのぞき込んで読んだ。応仁の乱より前、当温泉主の藤井家の遠祖が薪樵をしていると、白猿が岩窟から出て桂の根元に湧き出る湯で手足の傷を癒しているのを発見し、それが温泉であることを知った。仮小屋を立てて、一族の天然風呂として開いた。

藤井家は武士であったが、1440年に江刺勢と戦って鉛(このあたり)に敗走してきた。それで木樵百姓に身をやつしていたそうである。子孫の三右エ門が宝暦年間に大衆浴場とすべく安浄寺住職の計らいで役司の許可を得るも、飢饉、震災などの苦難により開業ままならず、三之助の代にようやく長屋を建てて温泉旅館を始めることができたのが1786年(天明6年)……238年前。

藤井家の三之助が始めた旅館だから、藤三旅館というらしい。宮沢賢治が書いた「なめとこ山の熊」は没後まもない1934年(昭和9年)に刊行されたそうだが、その冒頭近く「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」とある。なめとこ山はこのあたりの山である。藤三旅館の湯治部は夜9時消灯だから寝る。

朝7時に朝食の膳が運ばれてくるから、6時45分に起きて待つ。標高はどれくらいあるか腕時計の高度計で調べたら、128mと表示された。さほど高地でもない。あたりの山の標高は600m〜800mぐらい。なめとこ山はどれだろう。詳細不明だそうだけど観光目的の地図にはダムの上流の山の一つがそれに比定されている。

たしか十分な田畑を持たず、山林が国の所有になって伐採できなくなった小十郎は、家族を養うために熊撃ちを生業にした。名人などと呼ばれているが熊には申し訳なく思っており、胆や毛皮を里の商人に買い叩かれるのを不当に感じている。そのうち熊の言葉がわかるようになり、熊撃ちを苦痛に感じていたある日、不意を襲われて熊に討たれる。熊は小十郎を殺すつもりではなかったとか何とか、死にかけの小十郎に伝えた。そんな話だった。

山歩きの装備で来てるので、ハイキングコースか何かおすすめの散歩道がないか宿の人に聞いたら、整備されたコースはないし熊が出るから1人で山に入るのはおすすめしないという。買い物をするような店もなく、飲み食いできるものもなく、見るものといえば近くの赤い橋と鉛のスキー場(シーズンオフで閉鎖中)ぐらい。橋を渡ると鉛の集落がある。(要するに何もないのか……)

赤い橋は映画『海街diary』に出てくる橋だという。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが一緒に暮らすあの映画はたしか鎌倉・江ノ島あたりの話だったのに、岩手の橋がどうして出てくるのか。不思議に思って聞いたら鉛の藤三旅館がロケ地になっているからだという。どうして東北の湯治場が、湘南のdiaryに出てくるのか。もしや湘南のふり? 見てないから、わからない。

宿からも見えるくらい近い。もしかして、「なめとこ山の熊」ゆかりの地としてよりも『海街diary』ゆかりの地として知られていたりして。ブログのタイトル、「なめとこ山」より「湯の街diary」のほうがよかったかな? どっちにしても場所がよくわからないことに変わりはないが、岩手の花巻の鉛温泉スキー場のあたり。

布観橋(ふかんばし)と表示されている。「布観橋 海街diary」で検索したら、すずが旅館を指さした場所と出てきた。何でも出てくる世の中だな。3姉妹と母を捨てて家を出た父がよそで作った腹違いの妹を迎えて4人で暮らす、吉田秋生の漫画を下敷きにした是枝裕和監督の2015年の映画。ふーん。

すずが指さした旅館が鉛温泉の藤三旅館だが、映画では「あづまや」という旅館になっているらしい。3姉妹のうち2人ここに逗留したようだ。ちなみに立って入る白猿の湯は混浴だが、場所がバレるので入浴シーンはないだろう。川に面して露天風呂もある。そっちは座って入れるが、もし対岸からのぞけば丸見え。だからどうという話ではないけども。

忘れ物かな? と思ったら宮沢賢治ゆかりの地の案内板だった。それによると、なめとこ山は賢治を研究する人々の間では「特定の山を指していない」として豊沢川源流の山々の総称とされてきたのだが、無名の山「八六〇高地」の古地図(なんのや)に「ナメトコ山」の記載があることから、賢治生誕100年の1996年に国土地理院の地形図に「ナメトコ山」と記載されることになったようだ。

 

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震生湖

2024-04-14 | Weblog

秦野の駅で小田急線の電車を降りると見える丘にのぼったら湖があった。震生湖という名のとおり、地震で生まれた湖らしい。地震でどうして丘の上に湖ができるのか。ふしぎに思っていたら「震生湖の生い立ち」を記した立札があった。わりと新しい湖で、およそ100年前の関東大震災のとき地滑りで生まれた。

これがその震生湖。ちょうど桜が咲いていた(対岸の駐車場あたり)。1923年(大正12年)9月1日の大地震で市木沢の北斜面が250mにわたって地滑りし、沢を堰き止めて湖ができた。堰塞湖(えんそくこ)というそうだ。1930年(昭和5年)には東京帝国大学地震研究所の寺田寅彦らが測量調査を行った。2021年(令和3年)に国登録記念物になった。

花見がてら湯を沸かし長期保存食のカルボナーラをふやかして食べた。いつ震災が来ても困らないように備蓄してる食糧をストックローテーションのために消費したわけだが、ちょっと足りないんじゃないかと思ってパン屋さんで買ってきたカレーパンが保存食より美味かった。どうやら保存食だけでは、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが難しいとわかった。

およそ100年前の震災でも、今年1月1日に起きた能登の震災でも、被災者はプライバシーのない避難所で雑魚寝だった。ナチスがユダヤ人をガス室で大量虐殺する目的で作った収容所(アウシュビッツとか)でさえタコ部屋のような寝台で休むことができたのに、日本の避難所の設備は3か月後もそれ以下だった。台湾で大地震が起きると3時間後に食料も電源もあるテントで被災者が保護されたのと比べて、雲泥の差だ。

それにしても震生湖のあたりは花盛りだった。そのわりに人がいなくて、のんびり、ゆったり過ごせる。穴場というものかもしれない。もしも覚えていられたら、来年もぶらぶら歩きにこようと思い、メモがわりにブログを書いておくことにした。秦野の駅の反対側には丹沢の峰々を望むこともできる。その気になれば登山もできるけど、その気になることは多分ないだろう。

 

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日暮里

2024-04-06 | Weblog

朝焼けの日暮里、夕暮れの朝日町。ああ、そんな日暮里で電車を降りて谷中の墓地へ足を向ける。墓地のへりに面した幸田露伴居宅跡に立ち寄った。ここに住んでいたのは2年ほど、明治24年1月からだと立札に書いてある。その居宅から日々、天王寺の五重塔を眺め、同年11月にあの小説『五重塔』を発表した。

その五重塔の跡地が墓地の中で公園になっていた。正保元年(1644)に建てられた谷中の五重塔は安永元年(1772)に消失したのち、天明8年(1788)から寛政3年(1791)にかけて再建された。再建に取り組む大工の棟梁、八田清兵衛の仕事ぶりを書いたのが露伴の小説『五重塔』だった。

露伴が小説に書いたあと、第二次世界大戦の東京大空襲でも焼けなかった五重塔は、昭和32年(1957)に消失した。48歳の男性と21歳の女性が不倫の清算を図って焼身自殺したのが原因らしい。よそでやれ。消失してから30年後ぐらいに小説を読んだとき、一体どこに五重塔があるんだろう? と思ったが、ここだったか。

さらに30年ぐらい経ったら、墓地から五重塔が見えない代わりに東京スカイツリーが卒塔婆のように見える。この墓地はもともと天王寺の寺域であったのを明治政府が没収して墓地にした。まっただなかに五重塔の礎石があるから、なんかおかしいとは思ったが、五重塔のまわりは初めから墓地だったわけじゃない。

墓地に足を踏み入れると思う。死んだ人たちの家と生きてる人たちの墓、もとい死んだ人たちの墓と生きてる人たちの家は相似形だから、写真に撮ると区別がつかない。手前に建つ家と向こうに建つ墓、もとい手前に建つ墓と向こうに建つ家はそっくりで見分けがつかない。

そこらへんを適当に歩き回ったら雪之丞変化の墓があった。長谷川一夫は映画で雪之丞を2回演じたが、2回目の雪之丞は映画出演300本の記念作品だったらしい。そんな大スターのわりに墓が地味なので奥ゆかしいと思ったら、これはどうやら案内表示に過ぎなくて、墓はこの左側にあった。そりゃそうか。というか右側と思ってしまいそう。

あたりに巨大な、いかめしい、これ見よがしな墓が多い中では比較的こぢんまりしてるほうだ。右手前の墓石は長谷川家の水子の墓。向こうに3つ並ぶ墓石の真ん中に、雪之丞変化の長谷川一夫が眠っているんだろうと見当をつけて、正面の戒名だけじゃわからないから側面に回り込んで確かめる。

昭和五十九年四月六日 父 一夫 と書いてある。ウィキペディアで検索した長谷川一夫の死亡日と一致しているので、間違いない。気がすんだので日暮里駅まで戻り、電車に乗って帰ってきた。

 

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首都圏外郭放水路

2024-03-10 | Weblog

いつか行こうと思いながら、なかなか行くチャンスがない場所のひとつ「首都圏外郭放水路」へ行ってきた。どこにあるのか、よく知らなかった(埼玉だろうぐらいの認識だった)場所……たしかに埼玉の畑の中、というか野原の下にそれはあった。春日部のほうといえばイメージできるだろうか? 住所で表現すると、千葉県野田市宮崎……千葉じゃん!

春日部の道の駅・唱和の資料館で見たパネルによると、利根川・江戸川・荒川といった大きな川にはさまれた埼玉の一部(中川・綾瀬川流域と呼ばれる地域)はお皿のように窪んだ地形で、大落古利根川・倉松川・中川などの支流が緩やかに流れており、昔から洪水の被害が絶えなかった。そこで支流のそばに縦抗を掘り、縦坑をトンネルでつないで江戸川に近い調圧水槽に水を送って、ポンプで江戸川に流す放水路を地下に作った。

それが首都圏外郭放水路で、調圧水槽を「地下神殿」になぞらえて、見学者を受け付けている。洪水の心配がないときは水槽が空なので人が入っても大丈夫らしい。特撮番組や映画、音楽のプロモーション映像のロケに利用されることも多いと聞く。それで、なんとなく見覚えがあるんだろう。全長6.3kmのトンネルは国道16号線の地下およそ50mのところを通してあるという話だ。

見学者はこのような小屋(に見える地下神殿の入口)から階段を百段以上、自力で下りて自力で上がらなければならない。そう聞くと大変そうだが、地下50mと思ったら大したことないようにも感じられる。山登りで「あと50m」といったら、もうちょっとでたどりつく場所という感覚だから。もっとも、山登りと比べるほうが変なので、足腰に自信がない見学者を戒めるための「百段以上、自力で」なのだろう。エレベーターやエスカレーターはない。

重機はこうやって立坑を下ろしたり、立坑から吊るし上げたりするそうだ。昔、ぼやき漫才の人生幸朗・生恵幸子が「考えると夜眠れなくなっちゃう疑問」として地下鉄はどうやって穴に入れるのか、責任者出てこい! 的なネタをやっていたことを薄っすら覚えている。こうやって穴に入れているのかもしれない。

この穴の上では少年がスケートボードをやっていた。下は奈落で、およそ50mポッカリ口を開けていると知ったらスケートボードやってる足がすくみそう。知らぬが仏とはまさにこのこと。知っててやってる、ということはあるまいね。

階段はくねくね曲げてあり踊り場がたくさん設けてあるから、もし足がすべったとしても50mまっすぐ転がり落ちることはない。トントン下りてくると「地下神殿」が広がっている。高さ18m、幅78m、長さ177m。ガンダムが高さ18mだから、ホワイトベースの格納庫がだいたい「地下神殿」ぐらいかもしれない。それぐらいのスケール感といえばわかりやすいだろうか、わかりにくいだろうか。どうだろうか。

河川が氾濫しそうになって施設に水を取り込むのは、年に平均7回程度。どうしても水と一緒に土砂も入り込み、ポンプで排水したあとも床に数㎝土砂がたまる。見学エリアは手作業で土砂をよけて客を入れる。平均して年7回程度、お客さんのために土砂を(部分的に)どけて、歩きやすくしてあるわけだ。年末に重機を使って全体の清掃を行うらしい。

いわれてみると見学エリアの端から向こうに土砂がたまってる。このまんまでも歩けないことはないが、泥の状態だったら嫌だ。もっとも、汚れてもいい防水シューズ(山歩き用)を履いてきたので、きれいに土砂を取り除いた見学エリアを目にしたときは、ちょっとだけ残念に思った。だからといってエリアを越えて土砂の上を歩くようなことはしない。係員に怒られたくないから。

見学エリアの高さ18mの柱に何か表示してある。上のパネルは「定常運転水位」……あの水位を超えないところまで、調圧水槽に水を溜める。水位を超えそうになったらポンプで排水を急ぐ。台風のときなどはフル稼働しないと、あの水位を超えそうになるらしい。下のパネルは「ポンプ停止水位」……江戸川への排水はあの水位まで水が下がったら止める。残った水はトンネルを通し、別の縦坑からポンプで排水する。そんなことが、平均して年7回程度ある。

そんな作業を管理する場所がこちら。モニターに何やら施設の様子が映されている。「地下神殿」もロケ場所に使われるけど、この管理室がロケ場所として使われることもある。窓ガラスに『翔んで埼玉2』のワンシーンが例として掲げてあった。

「甲子園監視システム」ということは片岡愛之助が率いる大阪陣営が他県の人間を強制労働させている甲子園の地下の様子をモニターする場所だろうか?

ここは千葉県野田市宮崎だけど。

TBSドラマ『下町ロケット』で操作室がロケに使われました! 日テレドラマ『大病院占拠』で操作室がロケに使われました!! TBSドラマ『マイファミリー』で操作室がロケに使われました!! ロケ場所みつけるのも大変だろうな。

ロケ場所としての用途にとどまらず、地下の大神殿は春日部の暮らしと産業を支えているようだ。国土交通省による誇らしげなパネルが施設内に掲げてあった。水害が軽減されたことにより、企業の誘致が進んで物流倉庫やショッピングセンターが立地したという。

管理室は地下ではなく地上にあり、窓から外を眺めると見渡すかぎりのどかな風景が広がっている。地面にある円形のものは、第1工区トンネル1396mを掘ったシールドマシンの面板で、外径12.04m重さ120t。固い土を掘るカッタービットと呼ばれる刃が688個ついてると、近くで見た立札に書いてあった。

 

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バス散歩

2024-03-02 | Weblog

前回しょっぱなからコースをはずれたので東42からやりなおし。東京駅八重洲口(南口)のバス12のりばで待つ。雨降りだからバス散歩には、むしろ好都合。なんにも用事がないけれど、南千住車庫前行きに乗って阿呆みたいに揺られる。

アメリカ大陸を縦横に結ぶ、低所得層の交通手段グレイハウンドバスに乗りたいと思っても、アベノミクスで円の価値は下がり、日本人の資産が大幅に目減りしたから、おいそれと低所得層のバスにも乗れない。東京の路線バスで我慢するしかない。

バスが日本橋をゆくとき、灰色の窓に寄りかかって見慣れた景色を少し高い位置から眺めると、普段の東京と少し違って見える。まるで観光に来たようではないか。地方の都市で路線バスに乗ったときの感覚を催す……知らない町を走ってみたい、どこか近くへ行きたい。

浅草が近づいてくると、すぐ前をはとバスが走行する。浅草寺にでも行くんだろうか。それとも浅草演芸ホールにでも? あのバスの中では初々しいバスガイドさんか、ベテランのバスガイドさんが、マイクで何やかや東京案内のおしゃべりをしていることだろう。こっちは路線バスだし、お客さんも少ないから静かに前進あるのみ。

人力車の群れが路上をゆくのが見える。こうして路線バスの車窓から東京を眺めるのもまんざら悪くない。雨降りで寒い日だから、人力車で凍えるよりバスに揺られてるぐらいのほうがいいかも。最高気温、3度とか4度とか。数日前は突然22度ぐらいあったのに。

泪橋のバス停で降車ボタンを押してバスを下りる。ちばてつやの漫画『あしたのジョー』の冒頭でかなりのページ数を割いて、物語の導入として泪橋のドヤ街の描写があったのを覚えている。丹下のおっちゃんや矢吹丈がどんな吹き溜まりからボクシングで世界をめざすのか、しつこく泪橋を描いてあった。

これが泪橋の交差点。いまはもう橋がない。江戸時代、小塚原の御仕置場へ処刑されに行く罪人たちがあの世に去ることを悟り、涙を流して渡った橋だから涙橋=泪橋というそうだ。さすがにいまはもう、袖を濡らしてる人はどこにもいない。何の用があるのか車がビュンビュン走るだけ。

南千住車庫前バス停まで歩き、そこで上野松坂屋前行きバスを待って乗る。グレイハウンドバスに乗るとアメリカの低所得層の息づかいを感じることができるそうだが、東京の都バスに乗っても低所得そうな乗客の息づかいのようなものは感じられる。手ぶらで乗り降りする東南アジアの若者たちは、どこに何の用があるんだろう?

キャリーバッグを持って都バスに乗り込むのは旅行者なんだろうけど、どことなく低所得そうな雰囲気が漂う。そもそもキャリーバッグが安物っぽい。それはいいけど、なんでまた南千住からバスに乗るのか? これからどこへ行って、何を楽しむつもりなのか。あるいは稼ぎに行くのか。

日本のお年寄りも都バスに乗ってくる。高齢者はバス料金が無料になるか優遇されるからバス移動するんだろう。あんまり日本の若者はいない。低所得そうなんだけどな若者も……。奨学金がいつのまにか学資ローンに化けて20年、社会に出る前に多額の借金を背負うケースが多くてバブル後の氷河期世代なんかより過酷だと聞く。

吉原に身を沈めて学費を捻出する学生も多いとか。廻れば大門の見返り柳いと長けれど、と樋口一葉の「たけくらべ」に出てくる吉原大門のバス停が近づいてきた。目を凝らしてよく見ても、どれが大門でどれが見返り柳かまったく分からなかった。いまはどっちもないんだろうな、たぶん。

そうこうするうちにバスは走行して上野界隈をすぎてゆく。バスに乗ってるのも飽きてきたけど、おとなしく終点の上野松坂屋前まで乗っていく。せいぜい2時間弱なのに飽きちゃうとは長距離移動のグレイハウンドバスなんて無理そう。御徒町で古着屋をのぞき、別に何も買わず地下鉄で帰った。

関連記事: アルプスからバスで

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アルプスからバスで

2024-02-23 | Weblog

グレイハウンドバスで旅する『アメリカ細密バス旅行』という本を読んで無性にバスを乗り回したくなり、とりあえず東京駅八重洲口12番のりばから1時間に3本出てる都バスで南千住まで行ってから後のことを考えようと思った。その前に腹ごしらえをしておこうと、八重洲地下街のカレーショップALPS(アルプス)へ。

カレーと麻婆豆腐の相盛り500円を2度ほど食べにきたことがあり、今回は券売機で最高額メニューと思われる「満腹スペシャル7カレー」なる7種トッピングのカレー950円をふんぱつ。給食みたいな先割れスプーンが懐かしい。これを食べたら地上に出て路線バスで南千住のほうへ揺られていくんだ。

そういうつもりだったのだが、地下街を歩いてたら新しくできた地下バスターミナルに出てしまい、物珍しくて見物しはじめてしまった。京都にある北大路バスターミナルのようではないか。新宿バスタができたときは名古屋の立体バスターミナルに比べて何となく殺風景だと思ったけど、ここも殺風景……地域のせいか時代のせいか。

やがて新橋駅・新宿駅西口経由で渋谷駅まで走る路線バスが入線したので、ものは試しに乗ってみる。Suicaで220円均一だったようだ。地下から地上へ出る通路を見たら、あとは普通によく知ってる道ばかり走るので、浜松町あたりで眠くなり新宿御苑のへんまで寝ていた。30〜40分ぐらいか。

新宿駅の東口から西口へ地下通路をくぐり、西口26番のりばで京王バスを下りる。西口のロータリーにバス停がいっぱいあったと思い、地下通路にもぐって心当たりのロータリーのほうへ歩いていった。このへんだったかな? という場所から、階段を上がってみたらバス停が消えていた。

なにやら囲いこんで掘りかえしたり壊したり……そうだった。新宿も渋谷も銀座も、しっちゃかめっちゃかなんだった。東京ってどうしてこうなんだろう。焼けても焼けなくてもバラックみたいに建て増して、いつも便利になるわけでも美しくなるわけでもない。当面のこととして西口バスのりばは一体?

小田急ハルクのほうへ足を伸ばすと一部のバス停がまだ残っているようだったけど、あそこへ渡る通路がない。人足が立たされて「渡るな」と拡声器で言わされてるだけで、どうやってあそこまで行くかろくに説明しない。どうやら、よくわからずに邪魔だけしてるようだった。問い質してもまともな回答が得られなかったから。

仕方がないので地下通路に下りて、案内表示を見落としてないか確かめてみる。閉鎖のお知らせはあっても、行きたい場所に応じてどのように進めばよいか指し示す掲示は全然なかった。ところどころ表示される矢印は、どれが古くてどれが新しいか不明なのでかえって混乱の元になる。東京のことが嫌いになりそう。

要領を得ない矢印をたどり、まだ残ってるバス停のところへ上がってくることができた。都バスが何台か停車してる。もうバスはいいや、という気分になっていたけど、あと1路線ぐらいは乗っておこうと考えて王子まで揺られて居眠りする。そこからはもう地下鉄を乗り継いで帰宅した。

こんなことでは

グレイハウンドに

乗れないかも。

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海老名歴史さんぽ

2024-02-10 | Weblog

海老名など高速道路のサービスエリアとして認識するだけで歩いたことがなかったので、なんにも用事がないけれど小田急の電車に乗って海老名で降り、そこなる「海老名歴史さんぽ」案内板をながめて歩こうと、ネットで案内板設置のおしらせを読んで決めた。

市役所の売店などで同名の冊子が200円で販売されていると聞いて、数年前から関心を持っていたのだが、案内板が令和5年(昨年)に設置されたなら、わざわざ冊子を探さなくて済む。しかし、海老名市のウェブサイトに明記してある北口が海老名駅になかった。

表玄関らしい東口で小田急の駅員に尋ねても、裏口らしい西口へ行ってJRの駅員に問うても「海老名駅には東口と西口はあるが北口はない」という返答。どうなってるのか海老名市。もしや役人の誤記か? と疑いつつ、表玄関の東口で駅周辺の案内図をよく見る。

すると、利用客がいるのか怪しまれる人通りの少ないアクセスの悪い場所に相鉄線の海老名駅北口がポツンと存在した。それなら「相鉄線の」海老名駅北口と明記せねば「海老名歴史さんぽ」案内板を訪ねる人らが東口と西口を右往左往し、北口にたどり着かないか、たどり着くまでに時間をロスするのではないか海老名市?

案内板がいちおう存在したので頭に入れて相模国の国分寺へ歩いていく。聖武天皇の詔で国ごとに設置されることになった官寺のうち、法隆寺式伽藍を持つ初期の国分寺は大和国、下総国、相模国の三つしかないというのが、相模国国分寺のある海老名市の誇りらしい。

あの空地でキャッチボールしてる親子の向こうにあるのが国分寺の塔の基壇にあたるところだという。国分寺も国分尼寺もあっというまに廃れてしまい、たいていは荒れ果てて偲ぶよすがもないから、あれくらいでも遺跡があれば立派なほうだ。

国分寺も国分尼寺も庶民の生活がどんどん苦しくなるのに私利私欲にかられた為政者が湯水のように血税をつぎこんで工事させたので、現代でいうなら維新万博(とカジノ)会場のようなもの。憎まれて壊されて、後の世に親子がキャッチボールする場所として利用されたら立派なほうだ。

鎮護国家・鎮災至福をスローガンに押し進められたプロジェクトが特に具体的な成果もなく形ばかり完成したのち破綻するのは、官の事業にありがちなことで、そういうところも維新万博(とカジノ)用地の夢洲そっくり。イラストが法隆寺式伽藍の様子で、塔のミニチュアだけ駅前の商業施設に屹立してる。

空地に隣接する海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」をのぞいてみる。おばさんが出てきたから200円か300円ぐらい入館料を取られるかと思ったが、無料だった。よければ案内すると申し出てくれたけど遠慮した。新石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代(国分寺建立)など、海老名の遺物が時代順に並ぶ。

このへんは河岸段丘のようだ。舟つなぎ用の杭として打ったケヤキの棒から発芽して大木になったという「海老名の大ケヤキ」の名残が大切に保存されていた。県指定天然記念物であると立看板に記してある。そろそろ帰りたくなってきたが、河岸段丘を登って官寺の国分寺が廃れた後の名ばかり国分寺へ。

梅の木が見事に丸めてあった。こんなふうに刈り込んだ梅を見かけたのは初めてだ。薬師堂、薬師堂と縁起に書いてあるから薬師堂が元々あり、近くの国分寺が廃れた後に遺物を何かしら移してきて官寺ではないが国分寺を名乗ったものらしい。紛らわしいことを……。

「海老名歴史さんぽ」案内板にも出ていた鐘がものものしく飾りつけてある。想像したより小さかった。いつの鐘だろう? と寺伝を読んだら、鎌倉時代の正應5年(1292)に海老名氏が鋳造した梵鐘だというから、本来の国分寺にまったくなんの関係もない。もうええわ、やめさせてもらうわ! と漫才のようにお辞儀して急いで海老名を去り、小田急で帰った。

 

関連記事:   古墳と国分寺 

 

 

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近松と西鶴の墓

2024-01-20 | Weblog

兵庫県尼崎市のJR塚口駅(大阪から数駅)で降りて、ちかまつロードを歩いていくと10分か15分くらいで近松公園に着く。近隣には近松保育園やネオ近松と称するアパートなど、近松門左衛門にちなむ建物がいくつかあった。近松という地名ではないが「近松のまち あまがさき」として市や県が注力してる。

近松門左衛門は江戸時代の劇作家で、人形浄瑠璃(文楽)の台本を多く残した。福井藩士の次男として承応2年(1653)に生まれた次郎吉は、父の杉森信義が浪人したので寛文7年(1667)京都に出てきて、丁稚奉公をはじめる。奉公先の縁で浄瑠璃や歌舞伎に接し、天和3年(1683)というから30歳で書いた「世継蘇我」が上演されたらしい。

人形浄瑠璃の公演をチケットぴあなどで調べると、どうも関東より関西のほうが上演の機会が多い。近松は西で浄瑠璃を書いて、竹本座で上演したのだから。とはいえ、時代物を書いているうちは泣かず飛ばず。世話物の「曽根崎心中」が当たって名を成すのは元禄16年(1703)だから人間五十年を越えて、苦労の末の遅咲き。

売れっ子になった近松は宝永3年(1706)大阪に移り住み、そこの地縁で尼崎を描いた「五十年忌歌念仏」を上演したのが宝永4年(1707)。六十代になって尼崎の荒寺、廣済寺の再興を資金面で助けたのが正徳4年(1714)……昭和50年(1975)その寺の隣に建てられたのが近松記念館で、近松公園の一角を占める。

正面は施錠してあり、通用口に回るよう貼り紙がしてあったので、そっちから入ると管理人さんが出てきて入館料200円を徴収し、展示室を開錠して電灯と空調をつけ、展示の案内をしてくれた。前の管理人さんが3年前に他界してから、老後の3時間労働でここの番をしている。浄瑠璃は先日、初めて見たそうだ。

隣の廣済寺は、再興の恩人である近松のため、本堂の裏に離れを設けて仕事部屋として近松に提供した。この「近松部屋」は明治の末まで残っていたという。1階と中2階の2部屋あり、近松記念館の模型で概略がわかる。

中2階への短い階段が記念館に展示されている。実物だという。管理人さんにその話を聞かなかったら、ガラスの向こうに展示されている梯子のようなものを目にしても気に留めなかったかもしれない。

近松の墓は大阪の谷町筋にあるのだが、隣の廣済寺にも実はあり、どちらも本物だと管理人さんは言う。昭和25年(1950)に墓を掘ったら骨があったとか、後に過去帳が出てきて近松の戒名が記録されているとか、証拠(になるのか?)をいろいろ取り揃えてある。かえってあやしい。

せっかくだから廣済寺のほうの墓も見ていく。寺域を描いた江戸時代の絵図を見ると周囲がまるで海のようなのは、水田だからそう見えるらしい。カラーだったら水田とわかりそうだけど、墨だけで描くと木立のところが島のようではないか。

廣済寺の墓地に入ると近松の墓が整えてあり、思ったより小さかった。「冥土の飛脚」「国性爺合戦」「日本振袖始」「心中天の網島」「女殺油地獄」「関八州繋馬」など百の戯曲で名を轟かせ、享保9年(1724)に没した。それから300年。

大阪に戻り地下鉄の谷町六丁目駅から谷町筋を下ると、八丁目のガソリンスタンド脇にあるのが近松門左衛門の墓だ。このへんには相撲の力士を贔屓にする支援者がたくさん住んでいたので、いまでもパトロンのことをタニマチと称する。近松にも熱烈なタニマチがいたのだろう。

世話物で名を馳せたから、伝統的な時代物を高尚とする向きからは邪道と蔑まれた。しかし庶民は時代物を喜ばず、近松が書いた時代物は20年ずっと空振り続きで竹本座が潰れかけたところで一発逆転、三面記事的な要素のある実話を元にした世話物の浄瑠璃が大ヒット。いまでは古典として残っている。

近くの誓願寺で無縁仏の中に埋もれていた井原西鶴の墓石、明治の文豪、幸田露伴が発見して現在は墓地の中央通路の奥にしっかり据えてある。無縁仏の中から見つける露伴の熱意すごい。職業戯作者を近代作家の祖として敬う思いが強かったのだろう。露伴がいなければ無縁仏のままだった。

 

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番町界隈2

2023-12-02 | Weblog

番町界隈を歩いてブログを書いたとき、文人通りを行き来しても島崎藤村の住居跡が見つからなかった話をしたら、ご家族のかたが場所のわかる地図をくれたので改めて尋ねてみた。見つからないわけだ。脇道に曲がった場所で、案内板が木に隠れてた。

枝をかき分けて字を読むと、昭和12年(1937年)から藤村が6年間ここに住んだそうだ。6年後の昭和18年(1943年)は没年だから、晩年の住居ということになる。たまたまなんだろう、画家の藤田嗣治のアトリエが同時期に目と鼻の先にあった。藤田は藤村の亡くなる前後に神奈川へ疎開し、転居後のアトリエは空襲で焼けた。

いまはアパートになっている藤村の住居跡も、だから空襲で焼けたに違いない。もっとも藤村は昭和18年(1948年)に大磯の自宅で亡くなったというから、空襲以前に疎開なのか転居なのか大磯に移っていた。文人通りの住民はこぞって神奈川に越したのかもしれない。泉鏡花は空襲より先に近くの住居で逝去した。

そこから四谷駅のほうへ出て、お堀端の公園沿いに市谷駅のほうへ進んだら、内田百閒の住居跡があるはず……いただいた地図を頼りに尋ねると、あそこの角地がそうに違いないけど光文書院のビルがあるだけで案内板や記念碑のようなものはない。『ノラや』のノラはこの辺で失踪したのだろうか。

ノラを探して徘徊する百閒もかくやと近隣を捜索したら別の旧居跡に看板が出ていた。藤村が番町に転居してきたのと同じ昭和12年(1937年)に百閒も番町に越してきて、いまの番町公館のところに住んだが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け出され、看板の立つ場所の掘建小屋に戦後も3年ほど住んだ。そのあと光文書院の場所に三畳御殿を建てて移り住み、昭和46年(1971年)に亡くなるまで暮らした。

さらに市谷駅のほうへ足をのばし、フランス出身の風刺画家ジョルジュ・ビゴーの住居があった角地にきてみた。工事をやっていて痕跡ひとつなかった。道路をはさんで向かいに吉行淳之介が住んでいた(時期はぜんぜん違う)というので、右往左往して調べたが何もそれらしき跡はなかった。

二七通りを九段のほうへ歩いていくと、寺田寅彦の住居跡は見つからなかったけれども東京家政学院の門前に『明星』発祥の地の案内板があった。明治33年(1900年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社の機関誌として始まり、高村光太郎、北原白秋、与謝野晶子(鳳昌子)らが寄稿した。集英社の『明星』とは別物。

その先の路地に入って1本目の通りとの角地が、平塚らいてうの住居跡のはずなんだけど何の痕跡もなかった。明治44年(1911年)に25歳で雑誌『青鞜』を創刊して、「原始、女性は太陽であった」という表題の文章を寄稿し、大変な話題になった。そのわりに案内板すらない。

二七通りに戻って九段のほうへ歩くと、塙保己一の和学講談所のあったところでまたビル工事か何かやっていた。『群書類従』を編纂した江戸時代の人で、若くして目が不自由になり、琴だか三味線だか弾いていたのが学問に志して古文献の研究に邁進したすごい学者さん。アパートか雑居ビルにでもなるのかな。

その先の永井荷風の住居跡はこのような更地になっていた。靖国神社のほうへ曲がったら小山内薫の住居跡があると思って、行ったり来たりしたけどアパートや飲食店があるだけで手がかりすら見つからなかった。塙保己一の和学講談所の跡の工事現場に戻って、国木田独歩の住居跡を探しにいく。

そこは大妻女子大や付属校が密集するエリアになっていて、国木田独歩の住居跡や坪内逍遥の住居跡や武林無想庵の住居跡を、いまどき珍しいセーラー服の学生らが通り過ぎる。もっとも独歩や逍遥や夢想庵の住居跡として表示があるわけでもないので、おそらく誰ひとり意識することなく入学から卒業まで通過するだけ。

坂を下って大杉栄の住居跡がどうなってるか見にきたら、そこの角地はセブンイレブンになっていた。獄死したアナーキストの住居跡がコンビニエンスストアになってるとは意地の悪いこと。もちろん案内板や記念碑の類など、あるはずもない。つまらなくなってきたので、そこから地下鉄に乗って家に帰った。つづき(番町界隈3)は、また今度にしよう。

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