散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

大正池

2022-09-23 | Weblog

もうインドのパンゴン湖にしか見えない。

 
これは日本の信州の光景なのだが、標高4250mでインドと中国が領有権を争っているパンゴン湖のインド側で見かけた光景にそっくり。
 
パンゴン湖の様子は下記のリンクで確認できる。日本の信州、上高地の大正池も標高1500mの高地ながら、バスタ新宿から上高地行き高速バスに乗れば簡単にインド気分を味わえる……かも。
 

関連記事:   パンゴン湖

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穂高奥宮

2022-09-19 | Weblog

神社めぐりの連載というかミニコーナーを雑誌ターザンでやっていたころ安曇野の穂高神社をネタにしたのは2013年だった。あっというまに約10年の歳月が流れ、うかうか上高地を散策していると明神池のまわりが穂高奥宮と称しているのを見かけて寄り道した。

 
 


穂高神社をひらいた安曇族は九州からきた海の一族だから舟で祭を執り行う。だから今でも池に桟橋を架けて祭祀のために船をつないである。御神体はその上にそびえる明神岳でこれが元は穂高岳といった。
 
 


近くの山小屋の主がいうには安曇族が神としたのはあの穂高岳なのだが明治以後このあたりの山々がどれも穂高と呼ばれるようになり、紛らわしいので御神体をもって明神岳と称することになった。現在は明神岳が正式名称で穂高岳とは呼ばないし、地図の記載も穂高岳ではなく明神岳になっている。
 
 


御神体はいちばん手前に高く見える第5峰だが、これは遠近感による目の錯覚でより遠くにある主峰などのほうが標高は高い。近年はそれらを総称して明神岳と呼ぶ。穂を立てたような形状なので古くは「立て穂の峰」と呼ばれ、穂高の語源になったが、そんな穂高の山々の中でも明神はどちらかといえば忘れられがちな存在になっている。
 
 


上高地のルーツは穂高奥宮のある明神一帯なのだが、あの奥宮が明神池として囲い込んで拝観料を取っているのは元々ただの池でとくに名前はついてなかった。昭和30年代までは誰でも憩うことができた池を神社が柵でエンクロージャーして拝観料を10円ほど徴収し始めたのは昭和40年頃のこと。観光客の増加と共に値上げして、近年まで300円だったのが現在500円につりあがっている。
 
 


明神を中心に上高地は牧場地として明治以降ひらけたが、うまくいかなくて現在は観光地になっている。アクセスしやすいので手ぶらで遊びにくる客も多いが、標高1500m程度の山地であり、ここを起点にアルプスの山々をめざす登山客にも人気である。芥川龍之介が小説『河童』に書いた河童は上高地の沖積平野をなす梓川に棲む河童である。
 
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白山

2022-09-03 | Weblog

白山信仰を広めたという泰澄(天武天皇の後継者である大津皇子の長子、粟津王)の墓がある福井の大谷寺に行った昨年末、いずれ白山に登りたいとブログに書いたら鳥取に住む友人も以前から白山に登りたいと思っていたらしく、半年たったころ石川に出張の用ができたので8月28日と29日に登らないかと連絡をくれた。ひょうたんから駒で登頂した。

福井、石川、岐阜の3県に囲まれた白山には昔から越前禅定道、加賀禅定道、美濃禅定道という登山コース……というより修行コースがあり、それぞれの起点で馬を下りて長い道のりを歩かねばならなかった。前回は越前馬場の平泉寺白山神社(福井)から白山を見上げたが、今回は加賀馬場の白山比咩神社(石川)にまず寄る。美濃馬場は長滝白山神社(岐阜)というそうで、いつか行く機会があるだろうか。

白山比咩神社は加賀百万石の一ノ宮だから、さぞかし豪壮または絢爛なお社だろうと思って行ったのに、思いのほか慎ましやかで奥ゆかしく好感がむしろ高まった。以前はすぐ近くまで鉄道が通っていたが2009年に2駅手前の鶴来までしか通らなくなり、40分ほど歩くか1時間に1本あるかどうかのバスに乗って参拝する。どうも、訪れる人がそう多くなくて清冽な気に包まれている。

周辺に飲食店もない(あっても営業してなかった)ので、鳥居の前の売店で梨入りのドラ焼きとバタークリーム入りドラ焼きを買い求め、座るところも特にないので廃線の駅の待合室で昼食として飲み込む。半世紀ぐらい前は、ここからさらに白山下まで鉄道が通じていたというが、いまとなっては儚いことだ。現代の登山口である市ノ瀬まで、ここから公共交通機関がない。鶴来まで戻り、タクシー会社に電話して市ノ瀬まで約1時間、だいたい1万5千円と確認して背に腹は変えられないからそれで移動した。今シーズン、そういう客は初めてだそうだ。みんなマイカーか、早朝のバスで登山口へ行く。

昭和9年に起きた手取川大洪水の際に、上流の人家が数多く流されて住民の水死体と一緒に鶴来まで流されたというが、そのとき支流の宮谷川から3kmほど土石流に乗って運ばれた岩があれだ。「百万貫の岩」と呼ばれ、重さ約4800トン。あんなものが流れるようじゃ人家も人体もひとたまりもない。そんなことを、タクシーの運転手さんが話してくれた。

鳥取からバイクで来た友人と市ノ瀬の野営場で会ってテント泊まり。登山は翌朝からだ。標高830m。マイカー規制で土日はここまでしかマイカー(やバイク)で上がれない。標高1250mの別当出合までシャトルバスで20分ほどかけて上がる。旧越前馬場(現白山比咩神社)からタクシーで1時間、バスで20分かかるところを昔の人は徒歩で上り、そこから標高2702mの山頂までさらに歩いたのだから大変だ。

標高2000mを超えると酸素が薄くなるせいか、動作が緩慢になり思考能力も低下する。そんな状態で雲海を見たり、あたり一面に咲く花を見ると、白装束で登ってくるような昔の人はここが「あの世か」と思っても不思議はない。泰澄(粟津王)が、養老元年(717)に登頂を果たして白山を信仰の地として開いたときも、そのように見えたのではないか。少なくとも異界のようだと感じたに違いない。

標高2450mの室堂平にある山小屋に泊まり、休養を取って高地に体を慣らす。小屋の人の話だと白山はこの夏ずっと雨で、晴天なのは8月28日と29日ぐらいだった。9月は例年8月より雨が降る。登山口までの道路は10月ごろから6月ごろまで積雪で通行止めになる。友人の出張の関係で割合と安易に決めた山行のスケジュールだったが、千載一遇とは言わないまでも一載一遇のチャンスに山を登ってきた。

翌朝、登頂する。霊峰、白山は泰澄(粟津王)が藤原氏の迫害を逃れて対抗手段として白山信仰の寺院を各地に建立するはるか以前、おそらく縄文時代から信仰の対象として麓や海から崇められたはずで、開山後は千年以上の長きにわたり仏教の修行が行われる場所だった。禅定道、別当出合、弥陀ヶ原、など多くの地名がそれを示している。しかし明治の廃仏毀釈で、麓にあった広大な馬場も頂にあった御堂も破壊されつくし、すべて神社へと変えられた。

山頂には白山奥宮という神社が建っている。これを確かめるために登ってきた。室堂にあった数々の仏像のうち八体が、廃仏毀釈を逃れて市ノ瀬の登山口から下った白峰の林西寺に匿われている。それを昨年末、拝観した。山の仏教施設を破壊しつくした後、神社本庁は林西寺に仏像の受け渡しを要求してきたが、拒んで安置しているという。越前馬場も破壊されつくしていた。加賀馬場も破壊されつくして見る影もなく、岐阜馬場もどうやら破壊されつくして越前や加賀より無惨らしい。

自分の足で白山を麓から頂、頂から麓へ歩きながら、どうしてもカルトな反社会集団と国家権力の結びつきについて考えずにいられなかった。おりしも下界では、旧統一教会と現自民党政府の根深い結びつきが問題となり、政教分離がないがしろにされる民主主義の危機まっさかり。考えずに山を歩けというのが無理な話だった。

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